第174回:タージ・マハール学校
私が通った小学校が、教室一つだけの"ワンルーム・カントリー・スクール"だったことは以前にも書いたような気がします。一つの教室に1年生から9年生(日本の中学3年生まで)が一緒に詰め込まれ、窓側の一列目は1年生、そしてその隣が2年生と、9年生まで並び、一人の先生が全学年を教えていたのです。もちろん、運動場、校庭もなく、牧草畑の中にポツンと建っている一部屋だけの掘っ建て小屋が校舎でした。
同級生は6人いましたが、途中で一人どこかに消えたので、卒業したのは5人でした。中学校を5番で卒業したといっても良いし、ビリで出たといっても同じ意味になります。 そんな田舎の寺子屋みたいな学校を卒業した同級生のうち、3人は大学院まで行き、博士号を取り、そのうちの一人はNASA(アメリカ航空宇宙局)のチーフエンジニアになっていますし、もう一人は大手の航空会社のコンピュータ・プログラマーのトップになっています。私も言語学者の端くれとして、大学で(地方の小さな大学ですが…)教職に就いています。
突然、こんな話を持ち出した裏には、ロスアンジェルスにできた新しい学校、「ロバート・ケネディ記念小中学校」の校舎が、なんと578ミリオンドル(1ドル=100円と計算して、578億円ですよ!)もかけて完成したニュースを目にしたからです。ロバート・ケネディは1968年6月5日に暗殺されましたが、その場所であるアンバサダーホテルの地所に、ホテル以上の豪華なロビーを備え、学生の給食室はまるで4本か5本フォークの高級レストランのような壮大な学校を建てたのです。
もちろん、オリンピックサイズのプール、プロ並のフットボールスタジアム、日本の地方プロ野球のホームグランドが草野球場に見えるほどの野球場、などなど、あきれるばかりの超豪華版なのです。
北京オリンピックのメインスタジアムの建造費が500億円相当でしたし、今建設中の観客席8万人が収容できるデンバーのプロフットボールスタジアムは400億円相当ですから、578億円というのが公立の小中学校としていかにベラボーな金額かお分かりいただけるでしょう。
この学校の建設費用は、もちろんすべて税金で賄われています。税金を払っている地元の住民もさすがに呆れて、タージ・マハール学校と呼んでいます。このタージ・マハール学校には、幼稚園から9年生まで(中3)の4,200人が通っています。
しかし、このような集中型の大きな学校、建物と設備だけは超立派で、人目を引き、父兄や関係者を案内した時、彼らのアゴがアングリと落ちるようなタージ・マハール・タイプの学校は過去においてはすべて失敗しているのです。
カンサス・シティーの「マグネットスクール」が最悪の結果に終わったことをロスの関係者が知らないはずがありません。このロスの教育地区もアメリカで最低のレベルで、基本的な読み書き、算数でも、ユタ州、モンタナ州やダコダ州のド田舎の学校とは比較にならないくらいレベルが低いのです。
おまけに、ロスの教育委員会は、最近、財政難から教師3,000人のリストラをしたばかりなのです。その上、給料を払う予算がないとして、1学期を6日間少なくしたりしているのです。
このように、派手なウツワを建てるのが、よほど地方政治家はお好きなようで、カルフォルニア州では他にも、377億円の"Raybal
Learning Center"、232 億円の"Visual & Performing
Art School" を建てています。
ニューヨーク州でも235億円かけてタージ・マハール学校を建てたばかりですし、お隣のニュージャージー州でもニューヨークに負けてはいられないとブランズウイックに185億の高校を造り、マサチュセッツ州でもニュートンに195億かけてタージ・マハールのような高校を建てています。インドにある本物のタージ・マハールの方は奥さんのために建てたようですが、お金を使いすぎて国が傾いたそうです。
とても大まかな言い方ですが、アメリカの公立の小中高学校の校舎は世界で一番立派でしょう。私が通ったような開拓部落の一部屋学校は博物館にでも行かなければ見ることができません。それでいて、アメリカの生徒さんの教育レベルは、先進国の中で最低なのです。
もう問題も、答えも分かりきっています。教育はウツワ、建物の派手さ、立派さとは関係なく、むしろ逆に反比例すると言っても良く、大切なのは情熱のある先生が個々を良く知ることができる程度の少くない生徒を教えることなのです。
政治家や教育委員会のエライさんは(自分のフトコロを全く痛めず!)、あの壮大な学校建設に功績があった人物として名を残せることに余程名誉欲をくすぐられるのでしょうか、開校式のときに市長さんと並んでテープカットをしたくてたまらないのでしょう。
でも、教育はそんなところにはないのです。教室はプレハブでも良いから、情熱のある優れた先生を大切に確保しなければ、教育は成り立ちません。
教育は人なのです。必要なのは、"寺子屋"の精神です。
私が通った教室が一つだけの掘っ建て小屋学校が理想だったとはとても言えません。でも、私が教える立場に立った今、小学1年から中学3年までを一人で同時に教えていたスーパー先生、ミセス・フードルマイヤー先生を忘れることができません。蝿たたきで頭をたたかれるのだけは、もう勘弁してして欲しいですけど、ミセス・フードルマイヤー先生が情熱を持った優れた養育者であることは、彼女の教室に座った生徒なら誰でも文句なしに合意しないわけにはいきません。
アメリカの教育界のエライサンたち、建物ではなく、人にお金を使ってください。
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