第172回:現代アメリカの英雄?
先週、若いアメリカ版怪盗ルパン"コルトン"のことを書いたばかりですが、移り気なアメリカのマスコミはもう別の英雄を追い掛け回しています。テレビ4大チャンネルのトップニュースはこの英雄のことですし、裁判所から出てきた彼を迎えた報道陣、野次馬の数は、初めてアメリカを訪れたビートルズを飛行場に迎えた騒々しさに匹敵する…とは言いませんが、大変なものでした。
彼、スティーブ・スレイターさんは、ただ劇的なヤリカタで自分の仕事を投げ出しただけなのです。本人もまさかこんな大騒ぎになるとは予想もしていなかったようです。 スティーブさんは、ジェットブルーという安い航空料金でお客さんを集めている航空会社のフライトアテンダンス、昔流に言えばスチュアードでした。TWAやデルタで同じ仕事をしてきた、言わば20年選手のベテラン・スチュアードで、38歳になります。
ピッツバーグからの便がニューヨークのJFK空港に着いた時、よくあることですが、完全にゲートに到着し、停止する前に一時的に飛行機が止まることがあり、キャプテンがシートベルトを外しても良いというサインを出す前に、せかっちな乗客は我先にと立ち上がります。機内のアナウンスで、着席してくださいと繰り返していましたが、それを無視してかなりの乗客が天井にある荷台からスーツケースを引き出し始めていたようです。これが第一幕です。
飛行機がゲートに着き、ベルト着用のサインが消え、お客さんが我先にスーツケースを上の荷台から降ろし始めたとき、一人の中年女性が自分のスーツケースを引き出すのに手間取り、他のお客さんと何やら議論を始めたのを目にしたスティーブさん、彼らの間に入り、彼女のスーツケースを降ろすのを手伝おうとしたようです。ところが、イライラが高じていたその中年女性がわざとスーツケースをスティーブさんの頭にぶつけるように降ろしたというのです(真偽はともかく、このようにスティーブさんの弁護士は法廷で弁明しています)。これが第二幕です。
ここからが、本格的なドラマになります。
スティーブさんは機内のマイクロホンを掴み、機内放送で、「この20年間、乗客として私どもに敬愛と尊厳をはらってくれた方々、これからも良い旅をお続け下さい」とアナウンスし、ビールを一本握り、非常口を開け圧縮空気で膨らますタイプの滑り台で飛行機を降りてしまったのです。言ってみれば、スティーブさん、日ごろから常に満席の乗客のアテンドに疲れ、大きな荷物を大量に持ち込む乗客の上の荷台の取り合い、イザコザにうんざりしていたのでしょう、プツンと切れたのです。
そして、彼が自宅に帰ったところ、三つ四つのいかめしい罪状で逮捕されました。裁判はまだこれからですが、裁判所は彼に2,500ドルの保釈金を科して2日後に釈放しました。そして、裁判所を一歩出ると、彼は時の人になっていたのです。それが第三幕です。
今では、アメリカ人なら誰でも飛行機に乗ったことがあるでしょうし、多くの人は仕事やバカンスで年に何度も利用していますから、誰でも航空会社、チェックイン・カウンターの人、スチュアーデス、スチュアードに対して"一家言"持っています。それと同時に、誰でも自分の仕事でストレスを抱えており、長い経歴の間に何度か思い切り上司の顔に辞表をたたきつけたい、不条理な要求を押しつけてくるお客さんにバケツで水をブッかけてやりたいと思うことがあるのでしょう、それをスティーブさんが小気味良くやってくれたというわけです。
無責任な野次馬根性が旺盛なアメリカ人は、すでに11万人がスティーブさんのフェイスブックにログインし(私も彼の経歴を知るため、彼のブログを覗いたことを白状しなければなりませんが)、すでにファンクラブまでできて2万5,000人がサポートしています。中には事件のあった便に乗っていた乗客もいて、彼の行為に不安を抱いた乗客は一人もいなかっただろう、と述べています。
日本のニュースでもJRや私鉄の職員に対する暴力があることを知りました。どのように対処しているのでしょうか。もし、ただ職員に忍耐を強いるだけなら、横暴なごく一部の乗客を付け上がらせるだけになるでしょう。自分が客なのだからどんな無理な要求をしても構わないと思っている人には、どこかに一本のラインがあることをはっきりと示すべきでしょう。
私はもちろん、いつも乗客の立場でしか航空会社とは接していませんが、アメリカの航空会社のサービス、フライトアテンダンス、カウンターにいる職員の勤務態度が地に落ちていると感じます。もしこれがレストランなら、最悪の部類のウエイター、ウエイトレスで一銭のチップも置かないどころか、食べ物をつき返してレストランを出てしまうでしょうし、デパートでの買い物なら、あんな無愛想で礼儀を知らない店員から絶対にモノを買わないでしょう。
すべてにアメリカナイズされていくと言われている日本ですが、日本に行くたびに、日本人の謙譲、礼節、サービスの精神は尊いものだ、いいものだと思わずにはいられません。そして、飛行機に乗る時も少しくらい高くても日本の航空会社にしようか、と思っています。
スティーブさんの働いていたジェットブルーですが、その時の乗客全員に100ドルの航空券バウチャーを配ったほか、非常口の圧搾空気滑り台が25,000ドル、その取り付けのためのダイヤの乱れなどなどの被害を被っています。
スティーブさんの方は、テレビのモーニングショーの出演、レアリティーショーの出演、Tシャツの販売権などが舞い込み、インターネットを通じてのカンパには、一日で1,400ドルも集まったそうです。
しかし、彼が時の人でいられるのはほんの僅かな時間でしょう。彼を冷やかしにサポートしてる人たちもすぐに他のことに気を移してしまうでしょうし、マスコミも来週には他のスキャンダルを求めて書き立てるでしょう。
いかにもキレの良い、「オレはもう辞めた! こんなシゴト、ヤッテラレナイ!」とばかり、文字どおり、飛行機から飛び降りてしまったスティーブさん、カッコイイ仕事の辞め方を見せてくれたかのように見えますが、これから彼を採用する航空会社はないでしょう。サービス業に就くのも難しいかもしれません。
彼自身がいつも満席の乗客サービスを少ない乗務員で負わされている犠牲者なのかもしれません。でも、これもプロ仕事なのです。乗客を安全に飛行機から降ろす前に自分が逃げてしまってはお話になりません。
切れてしまうことは結局、将来、自分に舞い戻ってきて、高い授業料を払わされることになるのでしょうね。
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