第96回:「パッチギ!」を観て、思い巡らせたこと
更新日2007/05/24
井筒和幸監督の映画『パッチギ!』を、DVDで観た。一昨年の年始公開の映画だから、封切りされて2年数ヵ月後も経過しており、これでは、いつも店でお客さんの映画の話について行けないのも当然だと反省しつつ、鑑賞したのである。
長い間タブー視されてきたテーマをかなり正面から描いていて、私は見応えのあるドラマだと思った。細かいプロットの部分が飛んでしまいわかりにくかったり、エンディングをバタバタと都合よくまとめてしまったりした感はあったが、最後まで引き寄せられるものがあった。
映画の舞台は1968年(昭和43年)の京都。主人公が高校2年生ということで、当時N市の港区にある中学1年生だった私と4学年しか違わない。あの頃の空気は私もよく覚えている。
貨物船の多い港という場所がらで、港湾で労働する親御さんが多いということからか、在日の生徒が多く、今振り返ってみると、中学のクラス45人のうち、約5、6名、11クラスで3学年あったから、全校生徒数1,500人のうち、180人くらいは在日の子どもたちだったと思う。
彼らの多くは一つの地域に住んでいて、私などは遊んでいる時にちょっと足を伸ばし、その地域に足を踏み入れると、空気の質感が違うのを感じた。ピンと張り詰めたような、緊張した感覚を確かに体感するのである。臆病な私は、私にとってのそのオフサイド・ゾーンからすぐ逃げ帰ってきたものである。
中学2年生の時の担任のF先生は、若く知的な美人の女教師だったが、なかなかに熱い先生だった。ホーム・ルームで『走れメロス』を自分で朗読してみんなに聞かせ、最後は自ら号泣して涙にまみれて読み終えるというようなことがたびたびあった。
ある時、今回の映画『パッチギ!』のテーマ曲である「イムジン河」の歌詞のプリントを刷ってきて、こう話された。「この歌は、心ならずも放送を禁止させられてしまった歌ですが、朝鮮の人々の心情を歌った名曲です。みんなで覚えて歌いましょう!」
私は、この時にこの歌を覚えて、今でも忘れないでいるのだ。先生は、生徒の中にかなりの数、在日の子どもがいたことを把握していたのかどうか、今ではよくわからない。ただ、どこかの生徒の親から「放送禁止歌を学校で教えるとはどういうことなのか」と、案の定クレームが入った。
その後、どういう結果になったか、どう頭をひねっても覚えていないが、ホームルームでF先生が、この歌の大切さを抗弁するように生徒たちに話していたのを微かに思い出す。
私がK市の高校に入った時、高校のそばに『パッチギ!』に出てくるような朝鮮初中高級(日本で言う小中高等)学校があった。私の高校はいたって軟弱校だったため、映画のような「抗争」はなく、どちらかというとカツアゲなどはやられっぱなしの体たらくであった。
私の所属する柔道部の同級生のキャプテンのRは、北朝鮮籍の在日だった。彼の父親は廃品回収の仕事をされていたが、途中から焼き肉屋の経営を始められた方で、地元の名士だった。私が生まれて初めて焼き肉というものをごちそうになったのはこの店で、こんなに豪快な食べ物が世の中にあったのかと、カルチャーショックを受けたものである。
Rも、当時超高校級と言われた80kgを超える体躯の、実に豪快磊落な男だったが、ショパンのピアノを弾くなど、驚くほど繊細な部分も持ち合わせていた。柔道部の中でも、最強と最弱のコンビ、なぜかうまが合い、何度か彼の家に遊びに行ったことがあるが、居間の壁には、きれいな額装で主席の写真が掲げられていた。
一度北朝鮮籍の在日の文化祭というのが市のホールで開かれたため、彼の招きで観に行ったことがある。いろいろな出し物があったが、最後の舞踏の民族衣装は実に美しく、圧倒されたのを覚えている。不思議に思ったのは、日頃は肩で風を切って歩いている朝鮮高級学校の学ラン姿の生徒が、みんな一様に行儀よく観劇していることだった。
今回、少し資料を調べたところ、意外なことがわかった。現在、北朝鮮の在日の教育機関である朝鮮人学校は、朝鮮大学校をはじめ、朝鮮初中高級学校が全国に延べ80校(初級、中級、高級学校だけのもの、初中級学校、中高級学校という併設校も含めた延べ数字)ほどあるようである。
朝鮮初中高級学校は、以前、ちょうど『パッチギ!』の時代、1970年前後がピークで、生徒数が4万6,000名ほどいたが、現在は1万1,500人ほどに落ち込んでいる。これは少子化の影響もさることながら、これらの学校がすべて学校教育法第1条の規定する学校(以下「1条校」)に該当しない各種学校であるというのも大きな要因のようだ。
つまり朝鮮高級学校を卒業しても、一部の公私立大学を除く大学(国立はすべて)は受験を許可しない。新たに高等学校学力検定試験にパスをするか、日本の定時制高校にいわゆるダブル通学しなければならないことが、日本で生活していく北朝鮮籍の在日の生徒たちに大きな負担となっているため、敬遠されているようだ。
現在は、次々に統合休校化が進み、財政も逼迫して、苦しい対応を迫られている。助成金、1条校認定など諸問題が山積し、朝鮮人学校の今後の道はかなり厳しいことになっている。
一方、私は勉強不足でその存在を知らなかったが、韓国人学校というのも現存する。通常韓国学園と呼ばれるこれらの学校は、日本全国でわずかに4校にとどまり、朝鮮人学校よりは極端にその数が少ない。それは、北朝鮮と韓国のそれぞれの国家の、民族学校設立の考え方の違いによるものだろう。
東京に1校、大阪に2校、京都に1校あり、こちらも日本の小中高等学校と同じスタイルだが、東京校以外の3校が1条校として認定されているのが、朝鮮人学校との大きな違いであると言える。どちらかと言えば、在日韓国人の良家の子弟が通う学校という印象を、私は持った。
柔道部の同級生Rとは、今の仕事を始める前の年、会社の同僚と飛騨高山を旅行しているとき偶然に出会した。私もその頃はラグビーに夢中で体重が76kgほどあったが、彼はかなり痩せていて、とても小さく見えたのがなぜか哀しかった。
「おまえRじゃないか」「おまえはKだな、本当にKだよな」。驚いて挨拶し、肩をたたき合った後すぐ別れたが、今、彼と話したいことは、とてもたくさんあるような気がする。
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