第88回:箱根駅伝を観て 更新日2007/01/18
お正月の二日、三日は、久しぶりに箱根駅伝(正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」というらしい)を観た。二日にはラグビーの大学選手権の準決勝があったので、こちらは必見である故、全時間というわけにはいかないが、あまり駅伝に興味のない私としてはかなり真剣に観た方だ。
まずは、彼らの驚異的なスピードとスタミナにびっくりしてしまう。往路108.0㎞、復路109.9㎞、往復で217.9㎞の道のりを10区間に分けて走るのだから、一人あたり平均22㎞を1時間そこそこで走り抜けてしまう。私だったら、まず最初の100mもおつきあいできないだろう。
距離とともに大きな問題は、高低差だろう。相手は箱根の山なのだから、延々と続く上り坂。急勾配の下り坂を黙々と走り続けなければならない。走り終わった後、猛練習を積んできたと思われるほとんどの選手が、足をもつれさせながら倒れ込む姿を見ると、つくづく過酷なレースなのだなあと思ってしまう。
今年で83回を数えるこの箱根駅伝、少しその誕生の経緯を調べてみたが、意外なことがわかった。1919年(大正8年)、日本マラソン界の父と呼ばれた金栗四三氏らが、日本の長距離競走界の発展強化のために「アメリカ大陸横断駅伝競走」というスケールの大きな構想を考えつき、関東の大学に呼びかけた。
そして、そのレースの予選出場選手選考会として、東京と箱根間の往復駅伝を実施したのが、1920年(大正9年)2月14日だった。結局のところ、アメリカ大陸を駅伝で横断しようという壮大な計画は頓挫してしまったようだが、箱根駅伝は日本を代表する駅伝競走として今日まで残っているということのようだ。
今後、箱根駅伝の100回記念大会くらいに一度その「アメリカ大陸横断駅伝競走」というのを実施してもらいたい気もするのだが、どんなものだろう。箱根の比ではないかなり高地を走ることになるので、危険性の高いレースになってしまうかもしれないが。
さて、今回の箱根駅伝をずっと観ていて思ったことがある。それは「シード権」と「繰り上げスタート」についてのことだ。この駅伝を観ているほとんどの方がご存じだと思うが、出場大学20校(正確に言うと大学19校のチームと、出場できない大学の中から選ばれた選手による学連選抜という1チームがある)のうちレースで10位までに入った大学は、翌年の駅伝のシード権を得、無条件に出場できる。
ところが、11位から20位までの大学は、その年の秋に開催される予選会に出場して、這い上がってこなければならない。予選会には、関東大学連盟に所属している大学が40校ほど出場し、各大学10名ずつ、約400名が20㎞の距離を走り、10人の記録の総合で上位チーム6校が選考される。残る3校はそのレース結果と、それ以前に行われた関東インターカレッジのタイム等を勘案して決定されるそうだ。
自衛隊の立川駐屯地をスタートし、立川市街地を走り、昭和記念公園をゴールとする予選会は、かなりの過酷なレースだと聞く。
だから、10位以内に入るのとそれ以降とでは、文字通り雲泥の差があるようだ。そのために、箱根駅伝のテレビ放映中もしきりに10位近辺の争いを報じ続ける。優勝争いよりも画面は彼らを映している時間が長いかもしれない。アナウンサーも、始終「シード権争いは・・・、さて、このチームは10位以内に入れるのか」を繰り返している。
「あれ」と思ってしまうのだ。よくよく考えてみるとシード権を取得できるかどうかはその大学チームには深刻な問題ではあるけれども、私たちがそれほどまでに知っていなければならないことなのだろうか。
とにかく感動を煽る。シード権をとれないチームは悲劇の括りに入れながら「たいへんだ、たいへんだ」と言い続けるのだ。タスキが繋がらず、「繰り上げスタート」となったチームも悲劇のヒーローたちに奉られるのだ。
「繰り上げスタート」は、各中継所に、トップ通過のチームから20分経過(1、2区は10分経過)しても前の走者がたどり着かないときは、正規のタスキの受け渡しができず、次の走者が見切りスタートを余儀なくされることを言うそうだ。もちろんタイムは前の走者が中継所に着くまでは加算される。
たしかに、目に見えるところまで前の走者が来ていて、ギリギリで繰り上げスタートをしなくてはならないのが、とても辛いのはわかる。けれども、それは本来淡々とした報道の中から、私たち自身がくみ取って感ずるものではないかという気がする。
「ほら、感動してくださいよ」と報ずる側が演出をして、それに影響されるものではない。報ずる側はていねいにレースを追い、最後のゴール地点に順次選手がゴールして来たとき、私たちが11位以降の大学チームに「来年はがんばらないとね」と静かに声援を送ればいいのだと思う。
「熱闘甲子園」に代表されるような、感動を観る側に押しつけてくる姿勢のスポーツ番組が増えてきたことを、少し嘆いている。確かに「感動させて、泣かせて」という姿勢で、スポーツ番組を観る人が多くなっているから、需要に応えているだけだと言われるかもしれない。
けれども、少なくともスポーツに感動するということは、自らの心のうちから湧き出てくるものでありたいと思うのである。
第89回:宴会&宴会