第71回:お疲れさまテレビくん 更新日2006/03/30
今、私の店では映画
『ALWAYS三丁目の夕日』が、何人かのお客さんの話題になっている。私は、実際この映画をまだ観ていないが、話題は映画の内容そのものと言うよりも、当時の時代背景についてが、ほとんどである。
昭和20年代後半から30年代の初頭に生まれた方々は、あの映画の時代設定をストレートに受け入れているが、昭和20年代初頭生まれの方にとっては、実際とかなりのズレがあるとおっしゃるのである。
「あの映画は東京タワー建設がメインになっているから仕方がないけれど、実際とは3、4年、下手をすれば5、6年のズレがある気がする。映画を見終わった後、私と同年輩の男性も、「ちょっと違うよな」と話されていたから。
彼のお話では設定の昭和33年は、映画よりも実際はかなりいろいろなものが普及されていたのではないか、テレビも東京ではもっと多くの家庭がすでに持っていたのではないかということのようだ。
そこで、さてみんなの家庭にテレビが入ったのはいつ頃だろうという話になった。話の流れというのは、だいたいそういうところに行き着く。ところが、みなさんのお話をうかがっていて少し驚いてしまった。そこにいらっしゃったお客さんは東京生まれの方がほとんどだったが、どうやらテレビが家に入ってきたのが最も早いのが、長野県の田舎育ちの我が家だったのだ。
「そんなはずはないでしょう、私の家も昭和34年ですからかなり遅い方でしたよ」とお話しするのだが、みなさん一様に「その年はまだ家にはなかった」とおっしゃるのである。
昭和34年と言えば、私の妹が生まれた年である。当時の私の家族は廊下続きの二軒長屋に住んでいて、幸いなことにお隣さんとはたいへん仲が良かった。お隣さんは二間と離れに一間を持っていたが、私の家の方は六畳一間の生活だった。
お隣にはすでにテレビがあって、当時三歳の私は「名犬ラッシー」などの番組を見せてもらっていた。お隣の方はとてもよい方々だったので、小さな子どもがテレビを何回も見に来ることを快く迎え入れてくださっていた。
ただ、あまりお隣にお邪魔することを、やはり私の両親の方が気兼ねしたのだろう。テレビを買おうと言うことになり、当時としてはかなり奮発して、ナショナル製の14インチのテレビを購入してくれた。
子ども心に、とてもうれしかったのだろうと思う。割とおとなしい方だったが、テレビの前でピョンピョン跳ね回っていたらしい。当時目を痛めないために青色をしたプラスティックのフィルターのようなものが付いていたが、跳ね回っていた弾みでどこかにひっかけ落として割ってしまった。
テレビが入ってきた当日のことである。ただ、その後両親に叱られた記憶がない。子どものしたことだから仕方ないと鷹揚に構えてくれていたのだろうか。私が同じ立場だったら子どもを怒っていたと思う。今その時の気持ちを聞いてみたい気がする。
お隣のテレビは、画面を見るのに観音開きの扉を開けてから見るという、重厚感のあるものだったが、我が家のそれは布製の幕があるだけだった。考えてみれば、扉や幕がテレビに付いていたのはいつ頃までだったのだろう。
私の家にテレビが入ったのは、その時のお客さんよりも早かったことには驚いたが、その同じテレビを買い換えずに見続けたのは、おそらく我が家が一番だと言えると思う。少し前に書いたことがあるが、父親がNHK教育テレビの「テレビジョン技術」と言う番組を欠かさず見ていて、たいがいの故障はみな直してしまうのである。
世の中がカラーテレビの時代になっても、我が家は昭和34年に購入したテレビがデンと茶の間に置かれていた。早い家庭では東京オリンピックの時にカラーテレビに買い換えたところもあった。ところが我が家のテレビは、その東京、メキシコ、ミュンヘン、札幌冬季、モントリオールのオリンピックを映し出した後も健在だった。
おそらく20年近くはそのテレビを見ていたのだと思う。今でも実家に帰るとあの布製のカバーがかかったテレビが二階の小部屋の片隅に置かれている。もちろんもう映ることはない。先日試しにスイッチをひねってみると、画面中央に星のような光が映って、時間をかけて消えていった。
もうとっくに処分してもいいはずなのに、両親も捨てがたく置いてあるのだろう。私も実家に帰ったとき「彼」と対面すると、とても落ち着いた気持ちになれるのだ。
第72回:上手いCM、旨い酒