■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代
第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃
第62回:霜月の記
第63回:いつも讃美歌があった
第64回:師かならずしも走らず
第65回:炬燵で、あったか
第66回:50歳になってしまった

■更新予定日:隔週木曜日

第67回:もう一人のジャンプ選手と同級生の女の子のこと

更新日2006/01/26

まもなく、イタリア・トリノで冬季オリンピックが開催される。振り返ってみると、前回のソルトレークシティ大会から4年、長野大会からはもう8年が経過したことに改めて驚かされる。

長野大会は私の地元での開催だったが、何だか県の北の方で行なわれているというイメージで、南信(長野県で松本市以南の地域をこう呼ぶ)の私たちには不思議な程関心がなかった。私にとっての冬のオリンピックは、何と言っても札幌オリンピックである。

1964年(昭和39年)東京オリンピック、1970年(昭和45年)万国博覧会と、戦後着実に国際舞台への復帰を進めてきた日本が、1972年(昭和47年)2月3日から13日までの11日間、北海道・札幌市で冬季オリンピックを開催した。私が、高校1年生の3学期の時だった。もう、34年も前の話である。

正直を言って、当時の日本人にとって冬季オリンピックとはほとんどなじみの薄いものだったのだと思う。札幌のひとつ前、フランスのグルノーブル大会の模様は、クロード・ルルーシュ監督、フランシス・レイ音楽による美しい記録映画「白い恋人たち」(サザンの曲ではありません)で、日本でも紹介され、それなりの評判は得たが、けっしてメジャーなものではなかった。当時までの唯一の冬季オリンピックメダリスト、猪谷千春の名前を知っていた人が何人いただろう。

ところが開催されてみると、驚くほどの人気。圧巻は、宮ノ森シャンツェで行なわれた、70メートル級ジャンプ競技だった。私の家族全員も、炬燵に入りながらその実況テレビ中継を観ていた。

笠谷幸生、金野昭次、青地清二の日本のジャンパー3人が金、銀、銅メダルを独占した。笠谷が2回目の見事な飛技を見せたとき、実況アナウンサーが放った「飛んだ!決まった!」の一言が、その後長い間、広く流行語になった。

あの瞬間、日本中は確かに沸きかえっていた。私も興奮状態の中でテレビを凝視していながら、ひとつだけ割り切れない気持ちがあった。実はその日、日本は4人選手を出場させていた。メダルを獲得した上記3人の他の一人が、実力では笠谷に次ぐ2番手と言われていた藤沢隆選手だ。

藤沢は1回目によいジャンプを見せて、メダル圏内に順位を着けていた。そして2回目のジャンプ、他の選手同様期待をしてテレビ画面を見つめていた私たちだったが、藤沢が踏み切り、ジャンプに入ろうとした瞬間、突然画面が途切れた。しばらくして画面は修復したが、不思議なことに藤沢のジャンプについてコメントはなかった。

それから間もなく笠谷のジャンプがあり、日本のメダル独占が華々しく報じられた。しかし藤沢については、まるで彼がこの競技に出場していなかったかのように「無視」されたのだ。もともと心配性の私たち家族は「藤沢選手はどうなったのだろう」と、しきりに話し合った。

そして、全体の成績がテロップとして流れたのを丹念に見たとき、23位に藤沢隆の名前を見つけた。そこで初めてアナウンサーが「藤沢選手は踏切に失敗して、残念な結果に終わりました」とコメントをしたという記憶がある。

その後(日本中のどこの学校もそうであったように)、私の通っていた高校にいる男子生徒の多くが笠谷の真似をして「飛んだ!決まった!」ごっこをしていた。中には、友だちに後ろから両足を支えてもらいながら、前傾姿勢をとり、かなりリアルに飛行姿勢をコピーした運動神経のいい生徒もいた。

けれども、私はなぜか藤沢選手のことが気になっていて、素直にみんなと交じり合えなかった。彼が今どんな思いでいるのだろうと考えると、胸が痛んだ。そして、それから約1年前の高校入試合格発表の日のことを、ぼんやりと思い返していた。

1971年度の高校入試、私たちの中学校からは、K高校に25人が受験した。中学校の進学指導が徹底して堅実さに重きを置いていたので、80%以上の合格圏内にない県立高校は受験させてもらえなかった。事実、25人中24人が合格した。不合格だったのは、私の次の受験番号だった、同じクラスの女の子だった。おそらく、25人中最も成績のよい子だった。

彼女とは合格発表会場で出会わなかった。発表の帰り道、7、8人の同じ中学校の連中とさすがにはしゃぎながら最寄りの駅に向かっていると、向こうから、これから発表を見に行くという彼女と鉢合わせた。帰り道の連中は、全員彼女の合否結果を知っていたが、当然誰もそれを話せなかった。

合格をしても、不合格であっても必ず、その日に中学校に報告に来なさいという指示があって、私たちは国鉄中央線で三つ目にある中学校にその足で向かったが、彼女は、その日姿を現さなかったらしい。

あの日以来彼女に会っていないなあと、高校1年生の私は思ったものだが、その後もずっと会っていない。クラス会も何回かあったが、私が行っているうちは顔を見ていない。

私もその後、自分だけが合格できなかったり、選にもれたりすることを何回か経験してそれなりに落ち込んだが、あの華々しい日の中にいた藤沢選手と、同級生の女の子のことは時折思い返しては、自分のこと以上に辛い気持ちになるのである。

 

 

第68回:さて、何を食べようか-お昼ご飯のこと