■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代
第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃
第62回:霜月の記
第63回:いつも讃美歌があった
第64回:師かならずしも走らず
第65回:炬燵で、あったか

■更新予定日:隔週木曜日

第66回:50歳になってしまった

更新日2006/01/12

いよいよ今日、50歳になってしまった。特別な感慨はないけれど、まあ、とにかく半世紀生きてきたんだなあと、おぼろげに思うのである。ときどき、「何十歳代になったときが、一番考えてしまった?」と言う質問があって、私の場合は、やはり二十歳の時かなという気がするが、それぞれ十年単位で思い起こしてみようと思う。

(今、私の連載のバックナンバーを開いて気がついたが、一昨年48歳の年男になったときも、同じような述懐話を書いていた。ひきだしの数が少ないことがすぐに露呈してしまって恥ずかしい限りだが、ご容赦ください)

10歳になった時。1966年(昭和41年)、長野県岡谷市の小学校の4年生の3学期。誕生日当日のことは憶えていないが、寒さに震えながら登校し、体育の時間はスケートをしていた頃。

私の通っていた小学校の隣町の小学校が、冬になると校庭をスケートリンクにしていた。生徒の家庭から(たしか、私たちの小学校にも募集の依頼があった)夥しい数のビニール袋を集めて校庭に敷き詰め、その上に触媒の食塩を蒔いて、放水して一晩置くと校庭一面に氷が張る。

それを、腕のいい製氷職人が、ていねいにスケートリンクに作り上げていった。後から聞いた話だが、その担当の製氷職人の方は、1972年(昭和47年)の札幌オリンピックのスケートリンクを作る時に活躍されたらしい。

私たちはスケート靴を肩に担ぎ、担任の先生に引率され、クラス全員で往復6㎞の道を歩いて、その素敵なスケートリンクに滑りに行っていた。

20歳になった時。1976年(昭和51年)、私は、渋谷のジャズ喫茶「ジニアス」のスピーカーに一番近い席に座り、ハイライトを吸いながら、リクエストしたチャールズ・ミンガスの「直立猿人」を聴いていた。このLPの録音が私の生年月であったためリクエストをしたのだ。

前にも書いたことがあるが、「ジニアス」は私の行きつけのジャズ喫茶。10代の終わりから、20代の中頃にかけて、何度も何度も通った店だ。

髪の毛を肩まで伸ばし、ポケットに手を突っ込んで下を向きながら歩いていた時代。誕生日の3日後が成人式だったが、私は出席しなかった。そんな儀礼的なものは馬鹿馬鹿しいと思っていた。あの頃の成人式は、すでに同窓会の雰囲気はあったが、式典の方は粛々と執り行なわれていて、現在の喧噪振りは想像もつかなかった。

30歳になった時。10年働いた社会福祉の仕事から、メーカーのサラリーマンに転身して半年を経過した頃。そろそろ身を固めなければと思いながらも、ようやく似合い始めたネクタイ姿で、毎日銀座の居酒屋で飲み歩いていた、その中の一日。

それにしても、よく飲んでいた。酒代にばかりお金を使って、コート、背広は着た切り雀。特にコートなどは右腕の裏地が剥がれていて、着るときには、二回腕を通さなくてはならないような、悲惨な状況だった。

誕生日の日も確か二日酔いで、寒い朝フラフラしながら通勤した記憶がある。30歳になったという実感を噛みしめる余裕もなく、酒臭さを恥じ入りながらも、満員電車の乗客の一人になった。

40歳になった時。東北は宮城県の女川にある原子力発電所の作業所で迎えた。私の働いていた会社が発電所内の配管の割れを防ぐ工事の技術を持っていたので、10人くらいの技術員とともに、定期検査工事の現場に赴いていたその中の1日。

私の仕事は、放射線の管理業務だった。定検工事中の原子力発電所内は放射線が発生している。作業者は、一日に浴びることのできる放射線の量が決まっていて、それを越えては作業ができない。私の仕事は、作業者の放射線量をこまめに測定し(作業者の胸ポケットにメーターが入れてあるので)、監督に報告して、作業工程を管理してもらうことにあった。

誕生日の日は、現場から民宿に帰ると、みんなでお祝いをしてくれた。次々とつがれる酒を、しこたま飲んだ。次の日はお決まりの二日酔いになり、発電所構内で被るヘルメットのこめかみにあたる部分がズキンズキンと終日痛んだ。

実は、私は原子力発電所を段階的になくしていくべきだと考える人間だが、原発での仕事の経験は少なくない。この40歳の誕生日は女川、あとは東京電力福島、中部電力浜岡、そう言えば、昭和天皇の訃報は福井県にある日本原電敦賀で知った。

そして、今日の50歳。まったくの素人で自由が丘にバーを開いて6年余りが経過した。千客万来には程遠いが、何とか店を閉めない程度に営業は続いている。この先、60歳、70歳、生きていれば80歳になったときには、何をしているのだろう。

私の心から尊敬する、自由が丘の老舗のバーのマスターは84歳で現役であり、ご自分の息子さんとシフトを組んでカウンターに立たれている。銀髪のような美しい白髪を肩まで伸ばし、バンダナを巻くというスタイルで、いつも穏やかな笑顔で接客され、「自由が丘のパパ」的な存在である。この方の存在に少しでも近づくのが理想だが、今の私にはとても無理な話だと思っている。

 

 

第67回:もう一人のジャンプ選手と同級生の女の子のこと