第93回:鬼瓦権造さんのこと(2)
更新日2007/04/12
「飲んべマサ」は迫力のある人だった。サングラスを外した方がずっと怖い顔になる鋭い目つき、どんなものでもぶん投げ、ぶち壊してしまうようなガッシリした体躯を、真っ白なジャージが包んでいる。「この人の前で下手(したて)に出ていたのでは、工事期間中、きっとなめられっぱなしだ」。私は、咄嗟にそう思った。
けれども、何をしたらこの人にそれなりに認められるのか。いろいろ考えたが、やはり飲兵衛には、ストレートに酒で対抗しようと決めた。以前からとんでもなく強い飲み手と聞いていたので、玉砕覚悟、当たって砕けろの心境だった。
全員の工事関係者が揃った初日の夕食、ご飯を食べるというより宴会になり(これは、実はその後も連日そんな雰囲気だったが)、みんなかなりの量を飲んだ。私は、飲んべマサがものすごいピッチで酒を口に運んでいるのを、つぶさに観察していた。
彼は、皆に勧められるままにグイグイ煽り、その日福岡から電車を乗り継いできた旅の疲れも出始め、かなり酔いが回ってきたようだった。私は、ビールをちびちびと飲み虎視眈々と機会を窺っていたのだ。
そろそろ宴もたけなわとなり、みんなが部屋に上がる頃「Y(飲んべマサの苗字)さん、僕と飲み比べをしませんか」と言って、本社で陣中見舞いのために持たせてくれたウイスキーのボトル2本をテーブルに並べた。
「おおっ」とこちらに向き直った飲んべマサは、私をグッと睨んだ後、相好を崩し、「言うのう、ええよ、飲んだろかい」と言って、飲み始めた。それから1時間半、二人はお互いのボトルを開けた。私はそこまでは覚えている。
翌朝、観測史上最大級の二日酔いの中、這うようにして仕事に出た。さすがに飲んべマサも辛そうで、トイレに何度も立っていた。その度に「お前もアホや」と言って、私の頭を軽く小突いて行った。お互いの距離がグッと縮まるのを感じた。
権造さんは、「マサと酒で勝負するなんて、お前も無理なことをする奴だな。でも、身体張った分、これから楽だろう」。私の心中を見通したように、そう言ってくれた。
その何日か後に、私たちは時代が昭和から平成に変わりゆくのを、群青色の日本海沿いの道を現場に向かうワゴン車の中のラジオ放送で知った。
権造さんとは、その後も東京電力福島第一原子力発電所、東北電力女川原子力発電所でご一緒させていただいた。行く先々の下宿の女将さんたちにも大変好かれ、権造さんがずっと独り者であったため、「こんないい人のところに、どうして嫁っ子が来ないんだ。あんた女嫌いなの?」と聞かれたりしていた。その度に、「とんでもない、よい話があったらいつでもご紹介ください」と、笑って答えていたものだった。
福島の現場でのことだ。我々は2交代制のシフトで作業を行なっていたが、工程がかなり立て込んでいた。1日完全徹夜明けの後も、工事責任者である権造さんは下宿で食事をとった後も休む間もなく、現場に入らなくてはならなかった。
その期間の、朝の下宿の食卓では、作業が終わって酒を飲み、これから休む作業者の班とご飯を食べて、これから仕事に行く作業者の班とが同席していた。私も完全徹夜の後でかなり疲労が蓄積していたが、事務所に出勤して権造さんのフォローをするためにと、朝ご飯を食べようとした時だった。
湯飲み茶碗にお茶を注ごうとすると、権造さんがいきなりその茶碗に日本酒を注ぎだした。「お前は酒を飲んで寝ろ」、「いや、私も事務所に出ます」、「だめだ、お前は酒を飲め。目の下真っ黒だろう」。強く言われ、しぶしぶ私は酒を口に運んだ。
権造さんと早番組は、ワゴン車で現場事務所に出発していった。私は床について眠ろうとするのだが、なかなか寝付けない。とうとう作業服に着替え、タクシーを呼んで一人現場事務所に向かった。
事務所に着くと、権造さんは疲れた様子も見せず、作業者に忙しく指示を与えていたが、私を認めると、「バカが、やっぱり出てきたか」と言いながらニヤッとし、もう一度、「バカが」と言った。
ひとたび仕事から離れると、権造さんはきれいな遊びの好きな人だった。彼は、銀座を愛した。「花のお江戸に出てきたときは、銀座に行かなくては話にならんだろう」と言って、私たちを銀座のクラブによく連れて行ってくれたものだ。クラブの中では、自分がもてようと言うよりも、自分より若い連中に楽しんでもらおうと、細かく気を配る人でもあった。
ある時、権造さんと2、3人の後輩でクラブに行く前に、「君たち、あんまり冴えないネクタイを締めていますな、それじゃ女性陣にもてないだろう」と言って、ネクタイ屋に入り、1本ずつネクタイを買ってくれた。みんなが締め代えた後、「それでは出陣!」と言った、うれしそうな彼の顔を今でもよく覚えている。
私はその時のネクタイを、今でもとても大切にしている。8年前、スコットランドのマレーフィールド・ラグビー場の土産売り場で、ナショナル・カラーの濃紺でチームのロゴが入ったネクタイを購入し、権造さんに、「銀座のお返しです」とお送りしたときは、大変に喜んでくれて、こちらの方が恐縮してしまった。
私が退職する時、九州に挨拶に行った際も、相当数の関係者を集めて、大送別会を催してくれて、3次会、4次会と朝まで際限なく付き合っていただいた。
現在、63歳の権造さんは会社を定年後、北九州で一人暮らしをして いるらしい。もともと気丈夫な人だが、身体の方は若いときの無理がたたり、かなりボロボロの状況と聞く。「東京に行ったときは、必ずあなたの店に寄るよ」と約束してくれているが、なかなか上京が叶わないようだ。
ここは、長幼の序のならいに従い、できる限り早いうちに北九州に赴かなければと、最近は切実に考えている。
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