第92回:鬼瓦権造さんのこと(1)
更新日2007/03/29
最近、各地の原子力発電所で、以前に制御棒の抜け落ちなどの不具合があったことが次々と明るみに出て、その報告の必要性の有無をはじめ、いろいろな話題がニュースで報じられている。
私も、以前原子力発電所の従事者として勤務していたことがあるので、大きな関心を持って動向を見守っていくつもりだが、今回はそういった原子力の諸問題を語るのではなくて、原子力の仕事を通じて知り合った、私の敬愛する人のことについて触れていこうと思う。
昭和63年(1988年)の12月、当時あるメーカーの管理部門で働いていた私は、定検工事の現場での放射線管理業務と、工事関係事務を行なうために、福井県の敦賀市にある日本原子力発電・敦賀原子力発電所での勤務をするよう、会社から指示を受けた。
(現場での放射線管理業務とは、1日の作業で被曝できる放射線量が法律で定められているため、作業者が原子力発電所内でどれだけ被曝線量があるかを随時検出し、その数値を作業現場の責任者に報告して、作業工程のコントロールを進めていく業務のこと)
早速、会社の技術部で、工事内容の説明および、第1回の工程会議があり、私も呼ばれた。もとより、原子力は危なっかしいものだという思いがあり(今でもその思いは変わっていない)、しかも現場経験のない私は、かなり屈託のある思いで会議に臨んだ。
会社では、原子力工事を手がけ始めた当初、社員の作業者が原子力を敬遠するのではということから、管理部門が率先して従事しようと、放射線管理業務は代々管理部門の社員の仕事だったが、「なぜ、俺が?」という気持ちも強くあった。通常の業務がかなり忙しい時でもあったのだ。
会議が終わって自宅に帰ろうとした私に、「K君、ちょっとつきあってくれんか」と声をかける人がいた。それは、工事責任者のMさんだった。Mさんは以前にも何度か顔を合わせたことがあったが、その厳つい鬼瓦のような容貌から、若い社員からは陰で「鬼瓦権造」と呼ばれていた。いつでもTシャツの上に、作業服一枚だけを羽織りで歩いている。私を、会社近くの飲み屋に誘った12月のその日も、件の出で立ちだった。
「ほほう、そうか。K君はラグビーが好きですか」。ビールから日本酒に移った頃か、何かのきっかけだったのだろう、その年の1月ラグビー日本選手権で早稲田が東芝府中を破り、日本一になった話になっていた。
権造さんは続けた。「あの堀越というのは1年生ながら、かなり完成されたハーフですね。実は僕も高校の時やっとったんよ。福岡のガラの悪い農業高校でフルバックだった。これでもかなり足は速かった方でね」。当時の権造さんは、44歳、私はそのちょうど一回り下の32歳だった。
彼は、その飲み屋では一切原子力の話はしなかった。しかし、飲み終わって別れる頃、私はこの人の下であればたとえ原子力であっても、一緒に働くのも悪くはないな、と思い始めていた。今にして思えば、見事に、してやられたのだ。
それから2週間後、私は元の原子力担当の管理部門の上司(この方も顔は厳ついが素敵な方で、たいへんお世話になったが、何年か前他界された)と、タクシーの車窓から日本海を見ながら、原子力発電所作業のための宿舎である民宿に向かっていた。12月の敦賀、日本海の色はまさに群青色。ずっと見ていると、絶望して死にたくなるような色だった。
民宿に着いて、出てきた宿の主人の顔を見てまた驚く。どう見ても危ない関係の方の容貌だった。その後ろから、先に宿入りしていた権造さんが顔を出し、「おう、よう来たよう来た」と喜んで出迎えてくれたが、海の色と言い、怖い顔のオンパレードと言い、一瞬だが、心底敦賀くんだりまで来たことを後悔した。
権造さんの、仕事に対する姿勢は厳しかった。現場での作業時はもとより、作業者に生活面でもきちっとした規律を求めた。朝昼晩の食事は必ず全員で摂ること。夜12時までには宿舎に戻ること。8時始業の現場に30分前には入れるよう、宿舎で7時5分前にはワゴン車に乗っていること。
グループ会社が何百人と集まる朝礼でのラジオ体操は、必ず全員の真ん中である朝礼台の前に整列し、メリハリをつけて行なうこと。事務所で、現場から上がってくるとトランプ博打をしたり、エロ本を読みあさったりしている他社の作業者がたいへん多かったが、無論それらは一切禁止。昼休みは一切業務を行なってはならず、身体を休めるか、適当な運動で身体をほぐすこと。
当たり前のこととも言えそうだが、これらを遵守している他の会社は皆無だったのだ。生活を律したことにより仕事も一流のものになることを、権造さんは文字通り率先垂範した。彼は、現場では自らの会社が最もよい仕事をしているという矜持を持ち、作業者全員とそれを共有しようとしたのだ。
けれども、それ以外のことでは一切口出しはしなかった。酒をいくら飲もうが、麻雀、パチンコなどにいくら高じようが、みんなのやりたいようにやらせていた。上記の項目さえ守れていれば、問題はなかったのだ。
年が改まって、昭和64年(1989年)、本格的工事が始まるために、前年5人ほどだった私たちの会社の作業者も、各事業所から増員されて12人ほどになり、宿舎での食事も賑やかなものになった。
増員された作業者の中に、北九州から来た「飲んべマサ」とも「喧嘩マサ」とも異名を持つ、会社でも有名な、いわゆる「猛者」がいた。彼は初対面の私に、「よろしく頼むのお」と言ってきたが、そのサングラスの奥に潜む目の表情は、私にはよくわからなかった。
-…つづく
第93回:鬼瓦権造さんのこと(2)