第338回:流行り歌に寄せて No.143 「空に星があるように」~昭和41年(1966年)
私が小学校一年生の二学期までいた上諏訪にある借家の自宅は、お隣と廊下が繋がっている長屋だった。そこで暮らしていた時分、近所にちょっと不良のお兄さんがいた。彼は、今考えれば20歳を少し回った頃だと思うが、ご両親と一緒に狭い二間だけ(と言っても、我が家は一家四人で一間だったが)の家に住んでいた。
なぜか私のことを可愛がってくれていて、よく「カズボ、カズボ」と私を呼んでは、時々自分の部屋に上がらせてくれたりした。お兄さんの三畳の部屋には『ララミー牧場』のジェス役のロバート・フラーのプロマイド(当時は「ブロマイド」ではなく、みんなそう呼んでいた)や、日劇ウエスタン・カーニバルのポスターなどが貼られていた。
「おやつは食べたのか、まあいいやちょっと食べてけや。母ちゃんには言わなくていいぞ」と言って、パチンコの景品のチョコレートをくれたりした。彼は地元の実業高校を出て、近くの工場で勤務していたらしく、いつも作業服姿だったが、日曜日になると、大きな衿の派手めのシャツを着て街に出かけて行った。そばにいると、タバコの匂いがした。
それから3、4年ぐらいして荒木一郎がテレビに登場した時は、私はすでに父が建ててくれた岡谷市の新居に引っ越していたが、あのちょっと不良のお兄さんと再会できたような、そんな心持ちになった。持っている雰囲気がそっくりだったのである。
「空に星があるように」 荒木一郎:作詞・作曲 海老原啓一郎:編曲 荒木一郎:歌
空に星が あるように
浜辺に砂が あるように
ボクの心に たった一つの
小さな夢が ありました
風が東に 吹くように
川が流れて 行くように
時の流れに たった一つの
小さな夢は 消えました
淋しく 淋しく 星を見つめ
ひとりで ひとりで 涙にぬれる
何もかも すべては
終ってしまったけれど
何もかも まわりは
消えてしまったけれど
春に小雨が 降るように
秋に枯葉が 散るように
それは誰にも あるような
ただの季節の かわりめの頃
編曲家の海老原啓一郎はアルトサックス奏者。戦時中に海軍軍楽隊に入隊した経験を持つ。その後、清水潤、八代一夫らとのいくつかのバンドを経て、有名なビッグバンド『ザ・ロブスターズ』を結成し、赤坂ニュー・ラテン・クォーターのハウスバンドのバンドマスターとして活躍した。荒木の最初のLP『ある若者の歌』のアレンジャーも務めている。
荒木一郎は、昭和19年1月8日、父・菊池章一、母・荒木道子の長男として東京都に生まれた。父は戦後間もなく文芸誌『思潮』を創刊するなど、新日本文学会に所属する左翼系の文芸評論家であり、母は文学座出身の名女優である。
母の影響により、荒木は9歳で文学座のアトリエ公演に出演して、俳優としてデビューする。NHKのテレビ初期の連続ドラマ『バス通り裏』に出演した時も、まだ14歳だった。
その後は音楽にも興味を持ち、ジャズをはじめ多くの音楽を聴いて、ドラムを叩いていたこともあった。そして、昭和41年1月から始まった東海ラジオ製作(ニッポン放送ABC・KBCへネット)月曜日から土曜日、夜10時からの10分間番組『星に唄おう』のDJを務めた。この番組のテーマソングが『空に星があるように』だった。
この曲は同年9月、ビクターからリリースされ、荒木は歌手デビューを果たした。60万枚を超えるヒットとなったこの曲で、荒木はこの年、第8回日本レコード大賞新人賞を受賞する。翌年は『いとしのマックス』で第18回NHK紅白歌合戦に初出場も果たした。
『空に星があるように』は何回聴いても、その度に心に染み込むような、そんな曲である。その後の荒木の、いわば波乱万丈と言える人生のプロローグとして聴いてみると、余計に染みてくる気がするのだ。
俳優としては、ほとんどがアウトロー的な役回りが多く、これが妖しい光を放っていて、非常に魅力的だった。いくつかの作品の中でも、一番の心に残っているのは昭和50年に放映されたTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』の八村八郎役だった。主演の沢田研二(役名:可門良)が三億円強奪事件の犯人であるという設定で、実際のこの事件の時効間近に放送された作品だった。
荒木は、主人公の働く「八村モータース」の経営者の役。経営者といっても、従業員と同じに機械油にまみれて車の修理をしている。妻の役は安田道代で、沢田との三角関係をかなり危険に描いていたが、荒木のザラっとした感触の役作りが秀逸だった。
荒木一郎、73歳、生まれ月も同じ、ちょうど私と一周り違いの先輩。未だに、ちょっと不良のお兄さんというイメージの拭えない人である。まだずっと、活躍を続けていっていただきたいと願っている。
-…つづく
第339回:流行り歌に寄せて No.144「星のフラメンコ」~昭和41年(1966年)
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