第324回:流行り歌に寄せて No.129 「知りたくないの」~昭和40年(1965年)
あの頃のヒット曲について、きめ細かく覚えていらっしゃる方々にとっては、「えっ? 『知りたくないの』ってもう昭和40年に出されていた曲だっけ? もう少し後なんじゃないの」と思われるかもわからない。
確かにこの曲は、録音され発売されたのは昭和40年10月だが、大ヒットとなったのは昭和42年秋のことで、導火線に火をつけてからそれが爆発するまでに、まる2年の時間を要している。そして、菅原洋一はこの年、この曲でNHK紅白歌合戦初出場を果たした。
私も今回「こんなに早かった?」という疑問を持った。それには理由があって、私自身が音楽を聴いて受けた心象の経歴のようなものは、大雑把に「長野時代」「愛知時代」「東京時代」に分けられていて、それぞれが全く異なっている。
「長野時代」は昭和41年末まで、「愛知時代」は昭和42年初めから、昭和49年夏まで、そして、昭和49年秋からは「東京時代」ということになる。
長野県の片田舎で歌謡曲を聴いていた頃は、学校も近所の人々との交流もゆるやかでとても楽しく、何かすべての曲がぼんやりとして、夢見心地だったような気がする。
ところが、名古屋の港区に移転してからはその状況が一変し、乾いて硬質な人間関係に思い悩み、耳に入ってくる曲も緊張感を伴っていて素直には楽しめなくなってしまった。その状態をある程度克服し落ち着くまでに、かなり多くの時間を費やす必要があった。私にとって「愛知時代」の前半は、正直とても憂鬱で嫌な時間だったのである。
この『知りたくないの』は、まさに「愛知時代」の格闘中に聴いていた記憶がある。
「知りたくないの」 Howard Barnes:作詞 Don Robertson:作曲 なかにし礼:訳詞 菅原洋一:歌
あなたの過去など 知りたくないの
済んでしまったことは 仕方ないじゃないの
あの人のことは 忘れてほしい
たとえこの私が 聞いても いわないで
あなたの愛が 真実(まこと)なら
ただそれだけで うれしいの
ああ愛しているから 知りたくなの
早く昔の恋を 忘れてほしいの
菅原洋一は、国立音楽大学大学院を修了した後、昭和33年、25歳の時『早川真平とオルケスタ・ティピカ東京』というタンゴ・バンドで歌手としてデビューをしている。
昭和38年『若い日本』という曲でレコード・デビューを果たすが、その後数年はヒット曲に恵まれずに、下積み生活が続く。前述の通り『知りたくないの』(発売当初はシャンソンの名曲『恋心』のB面であったが、ご多分に洩れずヒットしたことにより、後にAB面をひっくり返している)を昭和40年に発売するが、売れるのには時間がかかった。
蛇足ではあるが『若い日本』というのは、国が国民の歌として詞を一般公募し、橋本竹茂という人の応募作品が見事採用され内閣総理大臣賞まで受賞した。そして西条八十の補作、飯田三郎の作曲と大家の手により作り上げられた曲だが、菅原のイメージにはまったくと言っていいほど、合わないと思う。
なかにし礼は、作詞家になる前にはシャンソン歌手である深緑夏代の依頼でシャンソンの訳詞を手掛けていた。菅原の歌った『恋心』もなかにしが訳詞したものである。
『知りたくないの』はシャンソンではなく、『ゼアーズ・オールウェイズ・ミー』など、エルビス・プレスリーの曲を多く作曲している、ドン・ロバートソンによる米国のポピュラー・ソングだが、訳詞としては、なかにしの代表的な作品となった。
その後作詞家として『今日でお別れ』『行かないで』『誰もいない』『愛のフィナーレ』など、菅原と組んで次々とヒット曲を世に送り出している。そういう意味で『知りたくないの』は、偉大な作詞家と歌手を生んだ歴史的な曲だと言えそうである。
菅原洋一と言えば、私にとってはTBSのテレビ番組『お笑い頭の体操』の中で、その容姿のことを、よく大橋巨泉に「3日前のハンバーグ」とからかわれていた人という印象が強い。今回調べてわかったのだが、そのニックネームはフジテレビの『夜のヒットスタジオ』で前田武彦がつけたとのことである。巨泉も前武もすでに故人になったが、口は悪いがシャレの効いた大人のエンターテイナーだった。
ということで、前回は歌謡界を代表する美しい女性歌手のご紹介をしたが、今回はその対極にある…とは、口が悪いだけでシャレの効かない話で恐縮である。
-…つづく
第325回:流行り歌に寄せて
No.130「唐獅子牡丹」~昭和40年(1965年)
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