第310回:流行り歌に寄せて No.115 「柔」~昭和39年(1964年)
男子柔道、リオデジャネイロオリンピックにおいて、金2、銀1、銅4と、全7階級でメダルを獲得という快挙を達成した。前回のロンドンオリンピックでの、金メダルなし、銀2、銅2のみで終わった成績を考えると、まさに大きな躍進だと思う。
私はこの好成績を得ることができたのは、井上康生監督の徹底した「現実路線」があったからだと考える。かつての多くの指導者たちは、本来の柔道のスタイルと、国際的になったとされる
“JUDO”というスポーツのスタイルの間(はざま)でずっと悩み続けてきた。
ところが、井上監督はサンボなどの他のいくつかの格闘技を練習の中に組み込むなど、現実的に相手のどのような動きにも対応できるスタイルを身につけさせていった。かつて日本選手が敗れた相手選手に対し「こんなの柔道じゃねえ」と悔しさをにじませた故・斎藤仁元監督の思いに、柔道じゃない者にも対応できる選手たちを作り上げることで、ある種の敵討ちを果たしたのである。
私は10年近く前のこのコラムに書いた通り、今でも日本は国際柔道連盟から脱退したほうが良いと考えている者だが、飽くまで今ある国際柔道競技と向き合っていく路線を選択するとすれば、井上監督は今回、たいへん大きな仕事を成し遂げたと思い、尊敬している。
さて、まさに柔道国際化の幕開けとなった前回の東京オリンピック。日本は軽量級で中谷雄英、中量級で岡野功、重量級で猪熊功が、それぞれ金メダルを取った後の10月23日(金)の最終戦、無差別級で神永昭夫が、オランダのアントン・ヘーシンクに袈裟固めで敗れた。
この戦いは、その後ずっと長い間語り継がれてきている。それだけ多くの意味で日本柔道界のみならず、日本人そのものに大きな影を落としたものだったからだろう。私も柔道を始めた頃からこの試合について深く調べたものである。
そして、そのうちに神永選手に深く関心を持ち、その後彼のことを知れば知るほど、人としての真摯な姿勢に胸を打たれた。
今回ご紹介する『柔』は、その試合から4週間後の11月20日(金)、日本コロムビアから発売された。
「柔」 関沢新一:作詞 古賀政男:作曲 美空ひばり:歌
1.
勝つと思うな 思えば負けよ
負けてもともと この胸の
奥に生きてる 柔の夢が
一生一度を 一生一度を
待っている
2.
人は人なり のぞみもあるが
捨てて立つ瀬を 越えもする
せめて今宵は 人間らしく
恋の涙を 恋の涙を
噛みしめる
3.
口で言うより 手のほうが早い
馬鹿を相手の 時じゃない
行くも住(とま)るも 座るもふすも
柔ひとすじ 柔ひとすじ
夜が明ける
この曲は日本テレビ系列のドラマ『柔』のテーマ・ソングとして作られてもいるが、その放送が10月27日(火)からのスタート。神永選手が敗れてからわずか4日後の放映開始だった。
内容は講道館の創始者で、各種の柔術を「柔道」という武道に体系化した、日本の柔道の祖である嘉納治五郎をモデルにし、彼の若き日々を描いたものである。主人公の矢野正五郎役には平井昌一、ヒロイン役には佐治田恵子が扮している。
オリンピック種目となった柔道人気でドラマは大ヒットし、昭和39年から翌40年にかけ本編の『柔』を始め、続編として『柔一筋』『続・柔』とシリーズを重ねていった。
一方、美空ひばりの歌唱の方も爆発的なヒットを飛ばし、190万枚と美空の出した曲の中で堂々のトップの売上を記録した。そして、昭和39年と40年のNHK紅白歌合戦で、異例のことである2年連続同じ曲でトリを取ったのである(40年は大トリ)。
しかも40年はこの曲で第7回日本レコード大賞にも輝き、離婚後まもなくの傷心の状態にあった美空にとって、歌を続けて行く意志を固めることのできる久しぶりのヒット曲になった。
作詞の関沢新一は、『モスラ』『キングコング対ゴジラ』など多くの特撮ものや、『暗黒街の対決』『独立愚連隊西へ』などアクションものの映画の脚本家としても有名な方である。
それによるものなのか、作る詞も今回の曲を始め、舟木一夫の『高原のお嬢さん』、村田英雄の『夫婦春秋』、都はるみの『涙の連絡船』、北島三郎の『歩』など、しっかりしたストーリー性を持つものが多い。またこれも自然のことだと思うがテレビ、映画の主題歌を多く手掛けているのである。
作曲家と歌手については、日本を代表する二人の音楽家という以上の言葉は持たない。いつか古賀政男や美空ひばりについて、自分なりの考えを伝えていくことができるのだろうか。おそらく、いくら時を経てもそれは無理なような気がしてならない。
-…つづく
第311回:流行り歌に寄せて
No.116「まつのき小唄」~昭和39年(1964年)
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