第309回:流行り歌に寄せて No.114 「涙を抱いた渡り鳥」~昭和39年(1964年)
私は、今までずっと水前寺清子という人は、昭和40年代になってしばらくしてからデビューした歌手だと思っていた。ところが、実は東京オリンピック開催中の昭和39年10月15日に今回の『涙を抱いた渡り鳥』でデビューしたことを知り、少し驚いている。芸能生活50年を優に超える、たいへんに息の長い歌手だったのである。
この曲によりクラウンレコードからデビューしたのが19歳になりたての頃だったのだが、実はそれ以前コロムビアレコードでは11回にわたりレコーディングをしていたという。15歳の時出場した『コロムビア歌謡コンクール』で2位になったのをきっかけにコロムビアからのデビューを何年も伺っていたが、ついに果たせなかった。
そのため、クラウンに移籍をすることになる。昭和38年当時新しくできたクラウンレコードに、コロムビアから北島三郎も移籍、同じくコロムビアのスター、美空ひばりと畠山みどりにも移籍の話が持ち上がるが、二人はなんとか止まった。
クラウン側は畠山の移籍第一弾として『袴を履いた渡り鳥』(彼女が常に袴姿で歌っていることに因み)を用意していたが、歌う人がいなくなり、新人である水前寺清子に歌詞の内容を変更した『涙を抱いた渡り鳥』として歌わせることになった。
余談だが『袴を履いた渡り鳥』はそれから22年後の昭和61年に、『袴をはいた渡り鳥」とひらがな表記に変え、演歌歌手、島津亜矢のデビュー作として提供されている。
「涙を抱いた渡り鳥」 有田めぐむ:作詞 いづみゆたか:作曲 水前寺清子:歌
1.
ひと声ないては 旅から旅へ
くろうみやまの ほととぎす
今日は淡路か 明日は佐渡か
遠い都の 恋しさに
濡らす袂(たもと)の はずかしさ
いいさ 涙を抱いた渡り鳥
2.
女と生まれた よろこびさえも
知らぬ他国の 日暮道
ままよ浮世の かぜまま気まま
つばさぬらして 飛んで行く
いいさ 涙を抱いた渡り鳥
3.
見せてはならない 心の傷を
かくす笑顔に 月も輝る
口にゃ出すまい 昔のことは
水に流して はればれと
仰ぐ夜空も 久し振り
いいさ 涙を抱いた渡り鳥
作詞の有田めぐむは星野哲郎の、作曲のいづみゆたかは市川昭介の、それぞれ別名義である。当時、星野哲郎はクラウンに移っていたが、市川昭介はコロムビアの専属作曲家だっったので、表向きには名前を出せないための策だった。レコード会社の制約が、今では考えられないくらい強い時代の話である。
ところで、水前寺清子のことを「チータ」と呼ぶが、そのニックネームの由来が今までよくわからなかった。今回調べたところ、水前寺の本名が「林田民子」であることから、「小さい、民ちゃん(チーさい、タみちゃん)の気持ちを忘れないように」という思いを込めて、作詞家の星野哲郎が名付けたということがわかった。
「初心忘るべからず」ということなのだろう。星野はその後、『いっぽんどっこの唄』『三百六十五歩のマーチ』『真実一路のマーチ』など、水前寺の大ヒット曲を次々と作り出していく。彼女の故郷である熊本の「水前寺成趣園」と武将「加藤清正」から時を受けて作られた水前寺清子という芸名もまた、星野らの提案によるものだったという。
6年前、青山斎場で営まれた星野の葬儀で弔辞を読み上げたのは、名コンビと呼ばれて多くのヒット曲を手がけた作曲家の船村徹と、水前寺清子の二人であった。
-…つづく
第310回:流行り歌に寄せて No.115
「柔」~昭和39年(1964年)
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