第45回:終曲 その1
バッハ音楽祭は6月の初めの週の金曜日にオープニング・コンサートがあり、翌週の日曜日に終わる。したがって、10日間バッハ三昧で過ごすことになる。
毎年、趣向を凝らし、「イタリア音楽がバッハに与えた影響」とか、「モンテヴェルディとバッハ」「バッハの後継者たち」「現代に生きるバッハ」のようなテーマを設け、それに沿って演奏が行われる。年によって珍しい曲も演奏される。全楽譜が現存しないとされていた“ルカ受難曲”とかメンゼルスゾーンが100何十年ぶりに演奏した“マタイ受難曲”の再演を聴くことができたりする。バッハ以前や同時代の作曲家の曲を聴くことができる。バッハが心酔していたモンテヴェルディやパレストリーナはバッハ音楽祭でなければ聴くことができなかったと思う。
10日間のバッハ音楽祭の期間中、必ず“マタイ受難曲”か“ヨハネ受難曲”のどちらか、もしくは両方が演奏される。私自身、大音楽家である“鈴木マサアキ”さんに似ているとは思わないのだが、西欧人にとって、白い髭、薄くなった頭髪、メガネだと、それだけで十分なのだろう、よく鈴木さんに間違われ、サインをねだられることある。本物の大音楽家はヤニ下がらず、透明で毅然とした容貌なのだが…。
アンドラーシュ・シフ(András Schiff)
アンドラーシュ・シフ(András Schiff;ハンガリー出身のピアニスト)のコンサート会場、狭いエヴァンゲリッヒ教会に入った途端、ディレクターらしき女性に、「こちらへどうぞ」とばかり、正面の真ん中の席に案内されたことがある。テレビ放映のための画像を収録するためだった。その時、私が鈴木さんに見間違えられているとは気が付かなかったが、後から思い起こすとどうもそうとしか思えない。お陰で、特等席でアンドラーシュ・シフを堪能できたのだが…。鈴木さん、どうも失礼しました、そしてありがとう。
締めは“ロ短調ミサ”が定番になっている。最終コンサートは聖トーマス教会で、夕方の6時に始まる。この最終コンサート“ロ短調ミサ”の演奏家は毎回変わる。いつの年だったのか記憶にないのだが、2階の演奏者が陣取る演奏ボックスとでも呼べば良いのだろうか、そのすぐ脇の席に着かされたこともある。今思えば、これも“鈴木さんのお陰”ではなかったか…。その時、目の前で指揮者クリストフ・ビラーさん、独唱者たち、ゲバントハウス管弦楽団、そして聖トーマス教会合唱団の演奏風景を観ることができたのだった。
聖トーマス教会でのビラー指揮によるトマナコア演奏(2013年)
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それまで、私は音楽は純粋に耳の芸術だから、見えなくても良い、美しくバランスの良い音が聴ければそれで良い、と思っていた。音楽に、とりわけクラシックに、ショー的な要素は要らないと信じていた。カラヤンや小澤征爾の指揮ぶりが如何にドラマチックであろうが、そこから生まれる音楽には関係ないではないか、第一、オーケストラのメンバーはほとんどと言うか全く指揮者を観ていないではないかと思っていた。大袈裟に見える指揮ぶりは、却って音楽を損なうとさえ思っていた。が、手を伸ばせば届く距離、ほとんど演奏者と一緒にいるような席で“ロ短調ミサ”を観て、聴いてから、意見を変えた。彼らが作り出す音楽が素晴らしいのはもちろんだが、これだけ近くにいると彼らの緊張感、集中力、エネルギーが伝わってくるのだ。
丸顔にモシャモシャしたチジレ毛を無造作に切り、相当強い度のメガネを掛けたビラーさんがよく響くバリトンで自身も歌いながらグローリアの導入部をトマナコアーに指揮するのだ。プロ、大人の合唱団員は楽譜から目を離さずに、あまり指揮者の方など見ずに歌うことが多いのだが、トマナコアーの少年たちは楽譜を手にしてはいるが、全神経を集中させて指揮者ビラーさんの方を見つめているのだ。子供の方が暗譜能力が高いのだろうか。それとも、ビラーさんがそのようなトレーニングを施してきたせいなのだろうか。
ビラーさんはオラが町の楽長さんといった雰囲気を漂わせ、ライプツィヒの町の人々に親しまれてきた印象だった。もっとも、彼自身、少年の頃トマナコアーで歌っていたし、日本公演でもバリトン歌手として“マタイ受難曲”でイエスを歌っていたはずだ。
バッハが就いていた聖トーマス教会カントル職を16代目として引き継いだビラーさんの姿を音楽祭で見かけなくなったのはいつの頃からだろう。何年か経って、最後にビラーさんを見かけたのはサラ・ポローニャ(ポーランド・ホール)でのコンサートだった。サラ・ポローニャは大きめの豪華アパートで、コンサートホールではない。広めの居間のようなところに椅子を並べ、アンドラーシュ・シフのリサイタルがあったのだ。
そこへビラーさんが杖を突き、歩くのもやっとという感じで後ろの席に着いていたのだ。顔は不健康に艶がなく、分厚いメガネの奥の目は鋭く、細く、眉間に深いシワを作っていた。身体全体が一回り細くなり、一挙に20歳も老けたようだった。ビラーさんの痛々しい様子を見た時、なぜか私は全身がシビレたような感覚に襲われた。すでに後期高齢者に分類され、初めは冥土の土産とばかり、かなりの無理算段をしてバッハ音楽祭に来てから、およそ2年おきに通い詰め、もう10回になり、20余年に渡る計算になる。その間、ビラーさんは聖トーマス教会のカントルを務め、バッハ音楽祭を支えてきた。私自身、ビラーさんと言葉を交わしたこともなく、何度か彼の演奏、指揮を観ただけだが、不治の病が彼から音楽を奪ったことを激しく嘆いたのだった。
にわか知識で調べたところ、彼の病気はスティーヴン・ホーキンス(Stephen Hawking;イギリスの理論物理学者、天文学者)と同じ神経疾患(Motor Neuron disease;運動ニューロン病、ALS、PLS、SMAなど)で治療の方法は見つかっていない難病だ。この病は通常視覚、聴覚、脳の働きはあるが、体全体が反応しなくなると言われている。スティーヴン・ホーキンスをバルセローナのコンサートで見かけたことがある。サリーをまとったインド系の奥さんが車椅子を押し、世話をしており、彼自身は涙ぐんだギョロ目、歪んだ口を半分開け、車椅子に付いた金具に揺らぐ首を後ろから支えられていた。スティーヴン・ホーキンスのイメージがビラーさんに重なったのだろう、私は、ビラーさんを襲った悲劇、残酷さを見たと思った。自身、もう指揮もできず、歌うことも、ピアノを弾くこともできない身体で、ただ修練を積んだ聴覚だけは研ぎ澄まされて残っているのだろうか。コンサートの後、ビラーさんを目ざとく見つけたアンドラーシュ・シフがビラーさんに歩み寄り、優しく肘を支えるように挨拶を交わしていた。
座ったままで、音楽監督のような仕事が可能だったようだったし、周囲も残留を勧めたが、ビラーさんは自分の病気が回復不可能なものであることを知り、スッパリとカントル職を降りたと聞いた。時に2015年のことだった。
クリストフ・ビラー(聖トーマス教会第16代カントル)
2022年1月27日に66歳で亡くなったことを知った。ありきたりの言葉だが、ただ冥福を祈るだけだ。
バッハ音楽祭の最後の演奏“ロ短調ミサ”を聴き終え、聖トーマス教会を出て、期間中何度も顔を合わせ、バッハを通じて自然に友達になった方々と、また来年ね、いや再来年になるかな、とお別れの挨拶をしてそれぞれの宿へ帰るのだった。
-…つづく
第46回:終曲 その2 【最終回】
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