第40回:ライプツィヒの近隣の町
バッハ音楽祭では、オプショナルツアーとでも言うのか、音楽祭の期間中、バッハゆかりの町や音楽、歴史に深い関わりのある町、または高名なオルガン製作者のオルガンがある教会へバスを仕立てている。それが、いくら公共の乗り物である汽車、電車、バスが発達しているヨーロッパ、ドイツでも、乗り換えを何度かしなければ辿り着けないような村や町のこともあり、非常にありがたくも重宝な日帰りバスツアーになっている。
おまけに、バスの案内人は英語で(もちろんドイツ語もだが)説明してくれる。そして、現地に着いてから、その教会、オルガンについてのガイド、牧師さんの説明と、そこの主席オルガン奏者の演奏がある。博物館があれば、そこへも連れて行ってくれる。
シューマンの生地、ザッカウ(Zwickau)へのバスツアーでは、聖マリエン教会でオルガン演奏とシューマンハウスのホールでシューマンのピアノ曲の演奏を聞かせてくれた。中世の村そのままのようなボルナ(Borna)へ、フライベルグ(Freiberg)でのオルガンコンサートとバッハ音楽祭の期間中に二、三度、オプショナルバスツアーを実施している。戦災に遭わなかったドイツの中小の町は、昔の面影をふんだんに残している。
私たちは、いつも自分で事前に交通機関を調べ、自分の足でどこにでも行くことを信条にしているが、辿り着いた村や町でのコンサートに巡り会う可能性は絶無に近い。そこへいくと、バッハ音楽祭主催のバスツアーはとても良くオーガナイズされていて、その町や村の案内、教会とオルガン製作者のことなどを説明してくれる上、そこのオルガンを生かしたバッハの演奏を聴くことができるのだ。そして、帰りはライプツィヒに午後の4時頃なので、5時のコンサート、または8時からのメインコンサートに充分間に合うようにスケジュールが組まれているのだ。難点は、バス1台分もしくは2台分の人数しか参加できないので、即完売してしまうことだろうか。
時差ボケを治し体調を整えるため、私たちは2、3日早目にライプツィヒに入ることにしているが、それを少し引き伸ばし、4、5日から1週間前にドイツに行き、他の町に何日か滞在してから通い慣れたるライプツィヒに入るようになった。多分にドイツ、ザクセンの旅に慣れ、ドイッチェ・バーン(Deutsche Bahn;ドイツ鉄道)や長距離バスの乗り方、使い方が分かってきたためでもあるが…。
ある程度、公共の乗り物の使い方が分かると、なるほど、便利にできていて、気軽にどこにでも行き、滞在できるようになったのだ。当たり前のことだが、車なしではどこにも行けない、数十キロしか離れていない隣町にも公共の乗り物がないに等しいアメリカに住んでいると、車を持たなくても移動できる素晴らしさが新鮮だったのだ。
ドイツ鉄道(DB) https://www.bahn.com/en
時間表、料金などとてもわかりやすいサイトだ。英語でも表記されている。
ヨーロッパ全土を網羅しているバス会社FlixBus https://www.flixbus.com/
このようなバス会社が多数ある。 出発地、時間、それに何日前に予約するかで
大幅に料金が違ってくる。一度プラハ・ライプツィヒ往復で20ユーロだったことがある。
バスの車内はとても綺麗で、トイレも付いている。
私たちが住んでいる米国コロラド州から、フランクフルト、ベルリン、プラハ、ミュンヘンに飛び、それらの地を見て、そこからゆっくりと列車、バスを乗り継いでライプツィヒに入ることを覚えたのだった。また、途中下車の形で、バッハ生誕の地であり、彼の200年ほども前にマルティン・ルッターが通っていたラテン語学校があり、バッハの子供時代を過ごした家があるアイゼナッハ(Eisenach)に立ち寄らない法はない(現在はバッハハウスとして博物館になっている)。
バッハ生誕の地アイゼナハ郊外の山上に位置するヴァルトブルグ城
ヴァルトブルグ城(Wartbrug)というのはドイツ語wart(待ての意味)とburg(小高い丘、山)の合成だと言われている。最初にこの丘に城を築いたシュプリンガー・チューリンゲン伯が狩の最中にこの山を見て、「しばし待て、この山の美しさを見よ」と言ったとか言わなかったとかが語源になっている。時に1067年のことで、言うことがいちいち因縁じみてしかも古い。大学でドイツ語の先生が、“デル、デム、デス、デン”レベルの私たち生徒に、“すべての梢の先々に憩いがある…”で始まるゲーテの詩をドイツ語で朗々と朗読し、“しばし待て、我もまた休まん”と結んだことが忘れられない。その時のしばし待て“warte”だけ奇妙に記憶に残っている。
この城内で実際に歌合戦なるものが催されていたのは13世紀、ヘルマン三世の時代のことで、それから延々と続けられていたのは史実のようだ。この中世の歌合戦を聴いてみたいものだと思うが、記録を見ると、当時の代表的な歌といっても叙情詩の朗読会のようなものだったらしい。のど自慢、歌謡ショーとはかなり異なるものだったようだ。
その歌合戦を種本にして、ワーグナーが『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)を書いた。ヴァルトブルグ城は確かにタンホイザーの舞台にピタリとフィットする様相を持っている。
また、ルッターが閉じ篭もり聖書をドイツ語に訳していた時、悪魔の誘惑があり、悪魔目掛けてインクの壺を投げつけた跡が残っている部屋も見ることができる。(と言うのだが、500年もインクのシミが残るものだろうか。それにこの高名な城は長い間、荒廃していたのを、19世紀になってカール・アレキサンダーが再建しているのだ)。
ヴァルトブルグ城はアイゼナッハの町の裏山の上にあり、町の中心からダラダラ坂を30分ほど登ると城門に突き当たる。城内にカフェテリアがあり、軽食を摂ることができる。偶然から、城内の礼拝堂でのバロックコンサートに出くわしたこともある。
フランクフルト空港駅からライプツィヒ行きの列車の途中下車でワイマールに寄ることもできる。ワイマールはゲーテ一色で、若きバッハが8年もの間宮廷礼拝堂のオルガニストを務めていた町だ。
-…つづく
第41回:観光案内風にライプツィヒの近隣の町と森
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