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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第30回:清らかに謳え、賛美歌

更新日2022/06/16

 

神を崇め、人類愛を説き、信仰心を広め、高めるために礼拝で歌われる賛美歌は、ルッターが音楽好きで、自ら賛美歌を書いているほどだったから、新教、ルッター派では礼拝に欠かせない重要な要素だった。賛美歌は音楽の素養のない、たとえあったとしても僅かしかない町の人、農夫、職人らが歌うのだから、とても歌いやすいメロディーで、音階が5度も飛ぶような曲は少ない。それによく馴染んだ聖句を歌詞にしている。聖歌隊が歌う曲とは難易度が天と地ほど違う。通常の賛美歌は、ソロのメロディーに和するように二部、多くても四声部コーラスで、常に主旋律が明確なものが多い。二つ以上のメロディーが噛み合わさることはまずない。マタイ受難曲のように、二つの合唱団が向かい合い、一部九声部のコーラスになることなど、普通の賛美歌にはない。

私のように楽譜を読めない、楽譜を見て即その音程を正確に声に出せない人間でも、一度そのメロディーを聴くと、二番は歌詞だけ追って他の人たちと調子を合わせて歌うことができるような曲ばかりだ。誰にでもすぐ歌えるように賛美歌はできている。

賛美歌集は教会の参列者が座るベンチ(Pew)の前に置いてあり、その日歌う賛美歌の番号は壁や柱に貼り付けてある。その賛美歌集は宗派によって異なるだけでなく、教区によっても違う歌が入っていたりする。それは、その地方で古くから歌われ、親しまれてきた民謡的なメロディーにキリスト教的歌詞を併せるから、その教区独自の賛美歌集が編纂されて当然だと言える。

No.30-01
聖トーマス教会、ライプツィヒ

バッハが聖トーマス教会、聖ニコライ教会の音楽監督としてライプツィヒにやってきた時、市の教区は讃美歌集を持っていなかった。1707年版の『ドレスデン讃美歌集』を使っていた。この讃美歌集には440の詩と374曲のメロディーが収められていた。この他に、バッハはパウル・ワグナー・コラール全集8巻を持っていて、それには5,000の賛美歌が収められていた。毎日曜日に歌う賛美歌は、礼拝を司る牧師とカントルが相談して決めることになっていた。ところが、バッハはそれを怠った。何を歌わせるか、音楽においては俺の方が遥かによく知っている、心得ている、何のために音楽のイロハも分からない牧師と相談する必要があるのか…という訳だ。このバッハ方式で初めの5年が経っていたから、新任の助祭ゴットフリート・ガウトリックは、自分が説教をするのだから、彼の説教に相応しい賛美歌かどうか事前に打ち合わせたいと当然のことを要求した。

バッハはこの新任の助祭の申し出を無視した。ガウトリックはザクセン選帝侯教会委員会に苦情を申し立てた。今から見ると、両者とも参列者に何を歌わせるかという些細なことに、何故あれほど拘り、意地の張り合い、大人気ない、まるで子供の喧嘩の様相を呈するまで発展したのか、不思議にさえ思える。

バッハが選んだ讃美歌の番号札が、ガウトリックの指示で取り替えられていたのだ。バッハは自分が選んだ賛美歌とは異なる曲が歌われ鳴り響いて初めて、柱や壁の賛美歌番号がすり替えられていることに気がつき、烈火のごとく怒った。

こうなると、もう穏健に済ます方法はなくなる。バッハは自分の雇い主であるライプツィヒ市参事会に訴え、一方の教会委員会は、ガウトリックの要請を支持した。教会に来る信者に清廉な心で何を歌わせるかという論争は、醜い政教問題にまで発展し、この両者の間で実に1年半も続いたのだ。キリスト教には謙譲の精神はないと思わせるほどだ。

この論争、意地の張り合いのような争いは、法的な解釈と利権があるばかりで、日曜毎に集まる信者にとって、何が、どんな歌が心に響き、清らかな気持を高揚させるかは問題にされていない。結論は、今後、カントルが選んだ賛美歌、聖歌隊のコーラスには誰も干渉しないというものだった。バッハは自分の領域を守ることができたのだった。

聖パウロ教会を巡る聖トーマス、聖ニコライ両教会のオルガニスト、ゲルナーとの争い、ガウトリックとの賛美歌抗争、そして同時進行の形で、今度はバッハの雇い主である市参事会との紛争が始まったのだ。天才は自分自身の意見、考えを丁寧に主張、説明し、凡人に理解してもらう努力を怠りがちだ。そんな無駄な時間、労力を費やすことなく、いきなり自分を打ち出してくる。

市参事会とは確執が多々あったが、今回はバッハがトレーニングし、育て上げたトマナコア(聖トーマス教会聖歌隊)の人選に関してだった。

トーマス学校の10名の給費生が去り、空きができた。給費生はバッハ一家と隣接する寮に住み、寮費、食事、学費は無料だった。その分街頭で歌い、演奏し、稼がされるのだが…。ともかく、応募者が多く、人気のある制度だった。それまでは、カントルであるバッハが試験、面接、試演に立ち会い、入学者を決めていた。しかし法的には、市参事会が最終決定権を持っていた。この事件が表面化するまで、バッハが選んだ子供を市参事会は無条件で承認していた。

この時の応募者は23人いた。バッハは、そのうちの5人は声も良いし、トーマス学校、トマナコアにとって素晴らしい生徒になる、7人は声は細いがまずまずの適正を持っている、残る11人は音楽のセンスなしで全く不適と、一人ひとりの出身地、両親の職業まで挙げ、市参事会に報告した。いつもならそのまますんなりとバッハの上申書通りに受け入れられるはずだったのが、市参事会は10人の空きに対して、バッハが推薦した5人だけの入学を許可し、4人はバッハがはっきりと不適格だと落とした子を選び、もう一人は面接、試験にさえ顔を出さなかった子を入学させたのだ。

これを知ったバッハが怒り狂うまいことか、憤怒した。バッハは実にしばしば怒り狂ったのだが…。法的には、入寮生の決定権は市参事会にあるのだから、参事会が選んだ子供を入学させ、中に音楽センスのない子がいたとしても、それを訓練し歌わせるのがバッハの仕事であり、寮生の人選にまで口を出すなと、いともカシコキ参事会は言うのだ。音楽だけがトーマス学校の入学基準ではない。他の勉学をそれ以上に重視せよというメッセージをバッハに送ったのだろう。

ライプツィヒ市参事会は、ほとんどバッハ追放委員会のようになり、バッハの行状を挙げた。カントルの勤めであるラテン語の授業、学力の低落、市参事会の許可なくトマナコアを近隣の村の教会で歌わせた、バッハ自身も許可なしにライプツィヒを離れ、オルガン演奏、試演に出かけている、元々バッハにラテン語の素養がないとし、バッハの音楽指導能力にまで疑問を挟んでいる。そんなこんなから、バッハを減俸に処し、今後市参事会の決定にすべて従うよう誓約書にサインさせるべしと、早く言えば、バッハ追放、バッハにしてみればただでさえ少ない俸給を減らされては、食っていけないし、ライプツィヒを去るしかない状況に追い込まれたのだった。

このボルン市長助役をトップにした参事会の面々は、全員一致でバッハ・バッシングに賛成している。誰一人、バッハの偉大さを認め、彼が打ち込んでいる音楽を認める人物はいなかった。何かにつけ強烈なエゴを打ち出し、それを体臭そのもののように漂わせているバッハが、よほど鼻についていたのだろう。

このバッハ追放委員会ともいえる市参事会委員の面々は、枢密顧問官、助役、参事会書記、他の6名の参事会員は、奇妙なことに建築の棟梁ばかりの構成だった。余程、ライプツィヒ市政に建設会社が深く関与していたのだろうか。驚くべきことに、誰一人、バッハの価値を認めていない、と言うのか、バッハは彼の音楽の価値以上に問題ばかり起こす市にとって厄介な人物だと捉えていたのだろう。

No.30-02
ライプツィヒ旧市庁舎

-…つづく

 

 

第31回:バッハの戦いと苦悩の連続

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第3回:ライプツィヒという町 その2
第4回:ライプツィヒという町 その3
第5回:ライプツィヒという町 その4
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