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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第4回:ライプツィヒという町 その3

更新日2021/11/18

 

オルガン奏者の彼女ら一行に案内されたニコライ教会の内部は、聖トーマス教会とは違い、街中の教会にしては驚くほど明るかった。ピユー(Pew;会衆が座るベンチ型の座席)も白が勝ったクリーム色に塗られ、柱こそ白塗りだが、その上部は開きかけたココ椰子の木を模した淡い黄緑、それに続く天井はパステルカラーのピンクのアーチが複雑な構造を浮き立たせ、その合間に花のレリーフを浮き上がらせるという、装飾的な内装だった。祭壇の採光はステンドグラスではなく、自然の光が古く分厚いソーダーガラスを通して入ってくるだけだ。

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ニコライ教会の内部
聖トーマス教会とは打って変わった明るく、装飾的な天井を持つ。
バッハ音楽際の重要な会場の一つとなっている。
収容人数はこちらの方が聖トーマス教会より多い。

バッハは聖トーマス教会、ニコライ教会、それに大学のセントポール教会の三つの教会のカントル(音楽監督)だった。この三つの教会はいずれも路面電車が走る環状線内にあり、歩いて7、8分の距離にある。バッハはこの三つの教会のほかの教会にも聖歌隊を派遣する義務を負っていた。

バッハがライプツィヒの音楽監督の仕事に就いた時、ライプツィヒの人口はおよそ3万人だった。とてもハンブルグ、ベルリン、フランクフルトのレベルでなく、お世辞にも大都会と呼べるような町ではなかった。もっともその当時、ドイツというまとまった国は存在せず、30年戦争が終わり、どうにかペストが収まった時点で、ドイツ国内に51の領主、他に35の自由都市が複雑な姻戚関係で結ばれていた。 

ライプツィヒのあるザクセン公国の首都はドレスデンで、そこには王宮があり、権力も集中していた。ライピチッヒはザクセン内では第二の町ではあったが、ドレスデンの豪華さ、繁栄には及びもつかない一商業都市だった。ザクセンが早くからマルティン・ルターの宗教改革に果たした役割は非常に大きく、時のザクセン国王フレデリック三世は賢王と呼ばれ、カトリックの圧力を撥ね退けるようにマルティン・ルターを保護し、新教を信奉した。

一つにはザクセン王国内で強大になりつつあったカトリックを押さえ込むために清貧なプロテスタントを保護したのだろう。プロテスタントから見ればザクセンの国王、フレデリック三世は確かに“賢王”だが、ヴァチカンから見れば悪魔の手先マルティン・ルターをかくまう、危険極まりない王だった。

その時代に生きた人々の心情、生活、とりわけ宗教に対する激しさを想像、理解するのは難しい。何を信じるか、カトリックからルターのプロテスタントに切り替えるのは生死を賭けた問題だった。血と憎しみに満ちた悲惨な殺し合い、30年戦争がようやく“ヴェストファーレン条約で一応の終結をみたのは1648年だから、バッハが生まれる37年前のことだ。その間、カトリックだけでなくプロテスタントの内部、またカルヴィン派との抗争で、魔女狩りが盛んに行われた。

スペインに住んでいた時、魔女狩りを浅い興味本意で調べたことがある。拷問の道具、次々と開発されていったらしい、これを使って責めれば最大の苦痛を与え、何でも白状すること請け合いの先端技術?である拷問器具の博物館、展示会などに足を運んだ。

何と言っても、有名な、悪名高き“トルケマダ大審問官”が音頭をとった魔女狩りだから、膨大な数の魔女が捕まり、拷問にかけられ死んだ…と思い込んでいた。ところが、スペインの何倍もの魔女?がドイツに住んでいて、殺されていることを見つけ、ショックを受けたことがある。

1580年から1620年にかけての俗に“第三次魔女狩り”期間だけで、ドイツを中心にフランス、オランダで殺された魔女、あるいは魔女と交わった男は1万人に近く、拷問にかけられ、処刑されたと言われている。カトリック側が云う魔女、悪魔とは、プロテスタントのことだ。

バッハがルターに深く帰依していたことは間違いない。その時、ライプツィヒの町は新教の牙城であり、またスコラ哲学の理論を踏んだルターの教義が神学として根ざし、基盤を築きあげつつあった。 

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1712年のスケッチ
マーケット広場呼ばれ、バッハ音楽祭の野外音楽堂になる。
もちろん、周囲にソーセージ、ビールを売る屋台が並ぶ。
正面の建物は旧市庁舎(Altes Rathaus)で、 現存し、
市の博物館があり、参議室で演奏会も催される。

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マーケット広場のバッハ音楽祭会場
毎週水曜日には市、野外マーケットが立つ。石畳はよく音を跳ね返すが、
さすがに今ではラウドスピーカーをいくつも並べ、巨大なスクリーンをステージ脇に設置し、
サッカースタジアムや球場のロックコンサート並みの音響設備を設けている。
折り畳み椅子も置かれているのだが、とてもそれだけでは足りず、石畳の上に、
ジカに腰を降ろしている人が多い。これはお尻に肉がたっぷりついている人のみ可能。

ライプツィヒが商業都市であったと言われても、いま一つピンとこない。従来、商業都市は交通の要所にあるのが常識だ。港町、または農産物の集散地が、中世の商業都市の所在だ。ところが、ライプツィヒには川こそあるが、海へ出るにはエルベ川と合流し、400キロ近く下らなければならない。町の西にアインシュテルベッケンと呼ばれる掘り込み運河があり、そこが荷揚げ、荷降ろしの河川港だったが、ザクセンの首都ドレスデンと直接繋がる運河はない。

ライプツィヒが中都市として人口3万人を抱え、ドイツ中部の商業都市としてそれなりに栄えたのは、自由都市として王侯からの圧力から逃れることができたからだろう。緩い意味での独立した自治都市だったのだ。 

ライプツィヒの町の繁栄基盤は、1400年代の終わり頃、近くのエルツゲビルゲ山系に銀が発見されたことによるらしい。それまでも主に羊毛、毛織物の交易で賑わいを見せてはいたが、この銀山が町に繁栄をもたらした。銀を掘り尽くした後も、アメリカ西部によくあるゴーストタウンにはならなかった。

この町を治めた“やんごとなき、いとも賢き市議”たちに経済感覚があり、銀がなくても交易で町を発展させていったのだろう。もう一つ、羊毛、毛織物産業が定着していたことも大きい。 中世において、英語で“Saxony”は良質の羅紗、フランネルの代名詞にまでなっていた。その商品取引の中心が、ライプツィヒだった。現在でも、ライプツィヒの見本市は有名で、世界中の注目を集めるユニークなテーマ、商品の見本市を主催している。バッハがライプツィヒにやって来た当初、すでにライプツィヒは商品見本市で賑わっていた。 

そこに、イタリア、フランス、スカンジナビア、チェコ、オーストリア、スイス、イギリスから商人、企業家が集まってきた。毛織物を中心に、農機具、グーテンベルグ以来毎年発展し続けいる印刷技術、医療器具、当時としては精密機械などの見本市は盛況を極めていたとモノの本にある。中世ヨーロッパには珍しい国際都市だったと言える。しかも、王侯貴族の統治から逃れた自由都市だった。おまけに市の参議たちが、伝統的に文化、教育に関心が深く、大学を創設、運営してきた影響も大きいだろう。

元々、カトリックの教会として建てられた、聖トーマス教会、ニコライ教会、大学内のポール教会も建物をそのまま使い、ルターの宗教改革に沿ったプロテスタントの教会に移行し、150年ばかり経て、揺るがない基盤を築いていた。安定した政策、この場合は宗教政策と言って良いと思うが、なければ繁栄はない。それに、ライプツィヒの“いとも賢き市議”たちの大半は商人だったから、商売に宗教を持ち込まなかったと思われる。そうでなければ、カトリックの国から多くの商人、バイヤーや見本商品を展示するセラーが集めることはできなかっただろう。

 

 

第5回:ライプツィヒという町 その4

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第2回:ライプツィヒという町 その1
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