第37回:そしてバッハ音楽祭、私は騙されていた…
以前述べたことを繰り返すは愚の骨頂だと知りつつ、また書かずにいられないのだが、初めてバッハ音楽祭に行った時、聖トーマス教会の祭壇、床に嵌め込まれたバッハの墓標に足を伸ばせば届くような席をオープニング・コンサートの時に振り当てられた。簡単な開催の辞がライプツィヒ市長、聖トーマス教会の牧師長からあり、すぐに音楽が鳴り響き始めた。その一瞬から、全身鳥肌が立ったのだ。演奏された曲目すら覚えていないのだが、その感動、全身を鋭い爪を持った鷲に掴まれたような感動は2時間ほどの演奏の間続いた。
全身が痺れたような感覚は一種のエクスタシー、トランス状態とでも言えば当たっているだろうか、ポップス、ロックコンサートに詰め掛け、泣き叫ぶミーハーと同じだと呼びたければ呼ぶがいい。あの時、私を捉えていたエクスタシーは大海原でほど良い風をセールに孕ませヨットを走らせる至福の時、性愛の喜びとは異質のものだ。それまで体験したことない全身全霊を揺るがす耽美の境地だった、と思う。
その時同時に、はっきりと、“私は騙されていた”と悟ったのだ。日本で貧乏学生が可能な範囲で、東京文化会館だ、NHKホールだ、サントリーホールだ、東京カテドラルだ、横浜のもみじ台の神奈川県民ホールだと渡り歩いていた。でも、一体あれは何だったのだと言いたい。それらの多目的ホールはフルオーケストラのコンサートに向いているのだろうが、バッハ音楽祭の会場の一つ、小さな聖トーマス教会の響きは全く異質のものだった。残響を殺し、できるだけステージの音が直接聴衆の耳に直接届くように設計されているコンサートホールでは再現しえない響きが聖トーマス教会にはあった。
勝手な想像だが、バッハやその時代の作曲家たちは、残響、反響の長さを計算していたのではないか…とさえ思う。オルガン演奏など、指折り数えてみると、音の高低によるが、演奏が終わってから5秒ほど教会内に響いているのだ。口幅ったくてオルガンのことなど語ることができるほどの体験はないのだが、オルガンという楽器はホール、教会と一体になって存在するものだと敢えて云う。なんせ、持ち歩きできない楽器なのだ。
東京で、札幌で、そして、最新、最大と自賛しているアメリカの新興宗教の寺院でオルガン演奏を耳にしたが、それらは、ヨーロッパの教会と一体になっているオルガンとは異質のものだ。もしかして、ヴァイオリンのようにオルガンは礼拝堂、神殿と一体になり、弾き込みが効き、音がホールに馴染んでくるのではないかとさえ思えるのだ。多分に文学的?な表現をするなら、奔放な幻想曲で透明な高音のフルート、ピッコロが駆け巡り、全身を揺がす低音がそれに和す、オルガンは耳だけでなく、身体全体で感じる音楽だと思う。
もちろん、反響や残響だけが要素ではないのを承知の上で言うのだが、バッハのミサ曲、受難曲、オラトリオは、教会でなければ再現できない種類の音楽だと思うのだ。スウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)は、幾度もハリウッドで映画を撮らないかと誘われたが、彼はスウェーデンの風土、自然をそこへ持っていけない以上、スウェーデンを離れて映画を作ることはできない、と断っている。バッハの音楽についても同じことが言えそうだ。バッハをギリシャやローマの遺跡、野外劇場で演奏することはできないし、ましてやヤンキースタジアムに5万人の観衆を集めてコンサートを開くこともできないタイプの音楽だ。そしてまた、21世紀のバッハがあっても良いと、認めた上で言うのだが、バッハのミサ曲などは、NHKホール、サントリーホールでも無理な種類の音楽だと思うのだ。
バッハ音楽祭、聖トーマス教会でのコンサート(2022年)
バッハ音楽祭2022年のプログラム
(*クリックでPDF版へ)
年々分厚くなり、今年のものは136ページあり、147のコンサートが
20近くのホール、教会で行われる。その他にもマーケット広場、
駅の構内、地下のパッセージでの演奏がある。
ストリートミュージシャンも多く、まさにこの10日間は
バッハ尽くめ、音楽尽くめになる。
月並みな言い方だが、本場には伝統の重さ、強みがあるものだ。それは麻薬的な常習性もあるのだろうか、私たちの経済力では、他のすべての休暇を諦め、バッハ音楽祭一本に絞らなければならないのだが、初めての時、これは一生に一度の“冥土の土産”と勇断したのが、なんともう十回も“バッハフェス(バッハ音楽祭)”に通うハメになってしまったのだ。流石に毎年というわけにはいかず、2年に一度のペースで現在に至っている。
-…つづく
第38回:ライプツィヒという町
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