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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第8回:バッハの顔 その2

更新日2021/12/16

 

絵画の芸術的価値よりもモデルのバッハのおかげで肖像画家ハウスマンは世に多少名を残し、知られるようになった。それでも、この肖像画があるから頑固そのもので、大食漢、ワイン、ビール大好き(そうな)人間の?赤ら顔のバッハのイメージが固定され、一人歩きし出した。

ハウスマン(Elias Gottlob Haussmann)は、1695年にやはり画家の息子として生まれた。バッハより10歳若い。その時代のドイツの世襲制は、江戸時代の士農工商という身分社会よりも厳然としていたようだ。大工の子は大工になる、粉屋の子は粉屋、絵描きの子は絵描き、音楽屋の子は音楽屋と生まれた時から決められていた。

父親は我が子を、同業者の元へ徒弟に出し、一人前になって戻ってきて、初めて自分の跡を継がせるのだ。それに加えて“ツンフト(Zunft)”という他からの侵入を許さない規制の厳しい組合があり、利権を守っていた。というより、利権にしがみ付いていたようにさえ観える。

バッハ一族も代々そのような音楽家族だったし、ハウスマンの家系も画家だった。当時の絵描きは王侯貴族に仕えるか、せっせと聖像を描き、教会に寄生するしか生きる道はなかった。

ハウスマンが一度棲みついたライプツィヒを去っているのは、地域ごとに領域を守っているギルド的ツンフトの規制に引っ掛かったのではないかと言われている。画家のギルドは“Malerinnug”と呼ばれ、地域ごとの利権に煩かった。

ハウスマンは“ザ・ストロング”というまるでプロレスラーのような渾名を持つアウグストス2世の王宮で宮廷画家になっている(1723年)から、20代で絵の実力、評判は相当なものだったのだろう。アウグストス2世はザクセンだけでなく、カトリックの国ポーランドの王を兼ねていた。一旦ギルドの規制を離れた宮廷画家になってしまえば、水戸黄門の“お札”の効果があったのだろう、1725年にライプツィヒに返り咲いている。時に30歳の時のことだ。そのおかげで、今チマタに溢れているバッハの顔を知ることができるようになった。

ベラスケスやゴヤのように宮廷画家でありながら、独自の境地を拓いて行ったのは例外中の例外だった。肖像画家たるもの、ひたすらホンモノそっくりに、何パーセントかはモデルの意向に沿って美人に、男性なら威光を持たせて描き上げるのを身上としていた。

No.8-01
ハウスマンの描いたゴットフリード・ライヒの肖像
1726~1727年の作品

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同じくハウスマンが描いたルイズ・ゴットシュードの肖像(1752年)
私の目からみれば、なかなか優れた肖像画家だったように見えるのだが、
この程度の画家はヨーロッパの宮廷にゴマンといたのだろうか。

私が、もしこれが壮麗な曲を作った大バッハの肖像画だと知らなければ、ライプツィヒ市の裕福で強欲な商人だと観たことだろう。人間には思い入れが観る目を変える一面が大いにあるものだ。 

“判で押したように…”と、私もまた紋切り型に書いてしまったが、この1748年の肖像画がバッハ音楽祭のプログラムの表紙になり、その期間ライプツィヒの中央駅の大横断幕になり、垂れ下がり、マーケット広場の仮設ステージを飾り、毎年あきれるほど大量に出版される本の表紙を飾り、CDのジャケットになっている。

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2012年のバッハ音楽祭のプログラムの表紙

それには理由がないわけではない。この2枚の肖像画だけが、確実にバッハをモデルにしたものだと、学者さんたちのオスミツキがあるからだ。聖トーマス教会の前に立っている銅像はバッハの死後150年経ってから造られたもので、こちらの方が酒気が抜けた、キリッとした良い男に仕上がっている。

この2枚の使用前、使用後を比べると、微妙な違いがあることに気が付く。1746年のものは全体に暗く(汚れているだけかもしれないが)鬘(かつら)なども真っ白ではない。全体に青みがかった配色だ。決定版にあるように、酒好きそうな赤ら顔ではない。1748年版はジャケットの内側の七つボタンもはっきりと見える。が、何と言っても大きな違いは目玉の光が一番目にはなく、2番目の1748年版にそれがあることではないか。

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1746年の肖像<ライプツィヒ市の博物館>
“楽識協会”に14番目の会員として入会した時に
義務として肖像画を収めることになっていた

現在、バッハ博物館にある
1748年作と言われている肖像

オリジナルと書いてきたが、元々2枚あり、左の青みがかった方はライプツィヒの市の博物館にあり、バッハが“樂識協会”に入会した時に納入したもので、右はガードナーの口利き、力添えでバッハ博物館にアメリカから返還された肖像画だ。これは1749年にバッハ自身が息子のエマニュエル・バッハに与えたもので、エマニュエル・バッハの遺産目録(1798年)に記載されている。

その後、1820年頃、レクロー(ポーランド語でWreclaw;現在ポーランド領、ドイツ語名ブレスラウ;Breslau)の商人の手に渡り、1936年に単なる骨董品のようにしてイギリスに渡った。それを、アメリカ人の音楽愛好家シャイデがそれを見つけ、購入し、アメリカはプリンストンの自宅に持ち帰った。

ということは、ハウスマンは二枚、同じポーズのバッハを描いたことになる。二枚目は、右の絵は、おそらくと言うより、確実に、一番目の肖像をコピーするように描き、実際にモデル、バッハ自身を三脚の前に据え、描いたモノではないと思う。

このように全く同じものを複写機に掛けたように描くのは、画家の良心の在り方を問うものだとする向きもある。が、元々ハウスマンは芸術作品を描こうとしていたわけでなく、市役所お抱えの肖像画家として、無難に仕事をこなすことを身上としていた画家だから、あれと同じモノを描いてくれと注文があれば、喜んで描いたとしても不思議はない。

 

 

第9回:バッハの顔 その3

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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