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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第22回:ライプツィヒ、聖トーマス教会のカントル職 その2

更新日2022/04/21

 

世事に長けたテレマンは、ライプツィヒの職が些細な詰め合わせだけでサインするところだということを餌にして、現職ハンブルグ市の音楽監督の仕事の増給を要求したと思われる。何のことはない、テレマンのライプツィヒでの求職活動は、ハンブルグの給料増額運動のためだったのだ。

テレマンはハンブルグ市に増給を確約させてから、ライプツィヒに丁寧だがきっぱりとした断り状を送り付けた。聖トーマス教会のカントル職に優れた音楽家が見つかりますように! と。こんな芸当はとてもバッハにできないことだ。

聖トーマス教会のカントルをいつまでも空席のまま放っておくわけにはいかない。市参事会は5人の候補者を新たに選び、試験演奏をさせるため呼び寄せることにした。だが、その中にバッハは入っていなかった。それどころか、候補者を選択する時にバッハの名を揚げる参事、聖職者は誰もいなかった。テューリンゲンの田舎楽師バッハは、それほど無名で評価されていなかった。 

テレマン採用失敗に懲りたライプツィヒ市当局は慎重になった。腰が引けた。この5人の候補者も相次いでご辞退ムードが支配的で、中には試験演奏にさえ顔を見せない候補者が出たほどだった。この14ヵ条の誓約に聖トーマス教会付属学校の監督官を勤め、そしてラテン語を教える義務があるという一項が、応募者全員の懸念の元だった。 

聖トーマス教会のカントルの人選は暗礁に乗り上げた格好になった。ところが、そこへ有望な応募者が現れたのだ。彼の名はクリストフ・グラウプナー、非常な多作(彼は生涯にカンタータ曲1,400、オペラ9曲、管弦楽、序曲、室内楽などなど多数)の作曲家だった。彼はヘッセン伯のダルムシュタットの宮廷楽長を勤めていた。ライプツィヒ市当局はグラウプナーにどのような条件なら聖トーマス教会に来てもらえるのか、とへりくだった言い方で、一応形式的なことではあるが、ライプツィヒに来ていただき、演奏を披露してもらいたいと書き送った。

No.22-02
クリストフ・グラウプナー(Christoph Graupner)
テレマン同様、ライプツィヒ大学法学部の出、音楽は聖トーマス教会のカントル、
クーナウの下で修行し、完成させた。バッハの2歳年上になる。
ヘンデルと親交があり、共にバッハの実力を認めていた。
当時のライプツィヒの新聞による人気投票では、1位テレマン、2位ヘンデル、
3位グラウプナーでバッハは7位だった。
(このような軽いエッセー、コラムにおいてでさえも軽蔑される『小説バッハ』
(ハンス・フランク著)の“孫引き”です。私は当時の新聞を見ていないし、
おまけにグラウプナーの曲を聴いたこともない…のだが。) 

グラウプナーは勇んで承諾し、ライプツィヒでミサ曲を指揮し、自作のマニフィカトを披露したのだった。申し分ない演奏だった。ライプツィヒ市当局はこれで決まりだと安堵したことだろう。ところが、グラウプナーの雇い主であるエルンスト・ルートヴィヒ・フォン・ヘッセン伯爵が首を縦に振らず、グラウプナーの退職を認めなかったのだ。

地元のオルガニストを数人試演させたが、テレマンやグラウプナーを耳にしたライプツィヒの審査官には彼らは物足りなく、とても伝統ある聖トーマス教会のカントルを任せられる技量はではなかった。

1722年の12月にクーナウ死亡の報を耳にした時、カントル職が空席になったのを知り、バッハはこの仕事に願書を出し応募していたが、ライプツィヒ市当局はバッハのことなど忘れていたのか、問題にしなかった。人選、採用にドン詰まり状態に陥ったライプツィヒ市当局はマア、一応どんな人物、音楽家なのか、この田舎の楽長バッハを呼び試演させてみるか…ということだったと思うのだが、翌1723年2月にバッハをライプツィヒに呼び寄せ、試験演奏させたのだった。

その時演奏したのがバッハ自作のカンタータ22番『イエスは十二使徒を引き寄せたまえり』だった。オルガンといい、このカンタータといい、バッハの演奏、作曲にライプツィヒの審査官、視聴者たちは目から鱗が落ち、まさに下顎が下がり、口をアングリと開けるほど驚いたことだろう。こんな人物がテューリンゲンの田舎にいたのか…と。

この時、ライプツィヒ市はケーテンからの往復の旅費としてバッハに10ターレル支払っている。テレマンやグラウプナーへは片道で22ターレル以上手渡しているのだが…。

それでもなお、ライプツィヒ市当局はグラウプナーからの拒絶の手紙を受け取るまで、バッハ採用に踏み切れなかった。ついに、グラウプナーからの返答が届いた。それによると、ヘッセン伯はグラウプナーに特別賞与として3,100グルデンという大金を与え、なおかつ彼が死んだ後、妻と子供たちの面倒を看ると約束してくれた…よって、今回の聖トーマス教会の仕事はご辞退申し上げるというのだった。

当然のことだが、ライプツィヒ市に一カントルに3,100グルデンを上回る褒賞を支払う財源はなかった。万が一あったとしても、教会の一オルガン弾き、聖歌隊の指揮者にそんな大金を払うつもりはなかった。

その年の復活祭の金曜日(1723年3月26日)に、バッハは自作の『ヨハネ受難曲』を聖トーマス教会で初演した。


この終曲は私のお葬式の音楽にしてくれと連れ合いに頼んである曲だ。当人は死んでいるのだから、後のことは連れ合いや残された人が勝手にしてくれればそれでよいと知りつつ、この『ヨハネ受難曲』の終曲の静かな響き、感動がつい遺言じみた余計なことを言わせてしまったのだ…。

バッハは後で散々苦労することになる14ヵ条にサインし、正式に聖トーマス教会のカントルに就職したのだった。この際、ラテン語を教えるという条件に付帯条項が付き、他のラテン語教師を雇ってもかまわないが、その費用はバッハが支払う条件に同意したのだった。時にバッハ38歳、1723年5月5日(任命式は6月1日)のことだった。

ここから、バッハの長いライプツィヒ時代が始まる。バッハは先妻マリア・バルバラの子4人(7人産んだが3人は死去)、それに二番目の妻アンナ・マグダレーナのまだ乳のみ子だった娘の計5人の子を引き連れてライプツィヒに越したのだった。

No.22-01
バッハの二番目の妻、アンナ・マグダレーナの
信頼できる肖像は残っていない。軍楽隊のトランペット吹きの末娘だった。
時にバッハ37歳、アンナ・マグダレーナ20歳前だった。
彼女は才能豊かな声楽家でもあったようだ。 しかし何よりもバッハの才能を認め、
尊敬し、バッハが死ぬまで彼に尽くし、内面から支えた。
これは1967年に製作された映画『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』の
ポスターで、映画では、もちろん細っそりとした美形にしている。


-…つづく

 

 

第23回:人間としてのバッハという男 その1

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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