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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第26回:バッハとセックス その1

更新日2022/05/19

 

いったいヨーロッパではラテン系と呼ばれるイタリア人、スペイン人、フランス人は好き者で、その方面でタフだと言われている。これが事実に基づいているのか、偏見だけなのか、そのような定評がある。

しかし、これもおかしな話で、好き者、女性を頭の天辺から爪先まで撫で回すように品定めをする視線を送るのは男性の方だが、それに応える女性がいてこそ成り立つ情景なのだ。女性の方もこれでもかというほど、直接的なセックスアピールをし、過激なファッションで闊歩する。保守的なモスレムの国の女性のように、身体全体を覆うブルカやチャドルを被っているわけではない。女性にも見られることで磨きがかかる要素が多分にあると思うのだ。

そんなラテン的なマッチョやセクシーなセニョリータがいる反面、霞を食べて生きているのかというほど現実離れした聖人のような人間がいるのもラテン系だ。良くも悪くも極端に個性的な人物が多いのがラテン系だと言える。

翻ってドイツ的、ゲルマン的なイメージは、個々よりも集団として捉えやすいように思う。イビサ島で垣間見ただけ、体験しただけのドイツ人観をバッハにまで当て嵌めるのは無理があると承知の上で言うのだが、あのような執拗さ、シツコサがなければ、膨大な音楽は生まれなかったと思う。

ラテン系にしろゲルマン系にしろ、セックスの激しさ、シツコさ、タフネスぶりは、とても我々、草食系の敵うところではない。おまけに、恥の感覚が基本的に違うと思えるのだ。セックスは秘め事、他の人に聞かれぬように行うという概念が全く欠けているとしか思われないほど大らかに叫びまくる。それがいかにも天が与えたもうた自然の喜びの行為であるかのように…。

小説家、詩人は、一人の女性像を心の中で醸造し、育み、昇華させ、それを作品に投影することがママある。私たちはそんな作品、ゲージュツを通して、その女性を知ることになる。エッ、こんな女のどこにそんな神秘性、気高さがあるんだと、残された肖像画や写真を観て思うことも珍しくない。だが、その小説家、詩人らは特別な目を持ち、感性を持っていたのだろう。我々、凡人とは全く異なる感覚でその女性を捉えていたのだろう。彼ら、天才たちは自己を燃え上がらせることに長けていたにしろ、その時、彼らが捉え、表現した感情は真実なのだと思う。

しかしながら、大天才にしろ、一方に俗人としての一面を持っていたはずだ。低俗人間としての私などが興味を持つのは、何をどの様にして食べ、どこでどのように異性と接し、どの様に寝ていたかという日常的な生活だ。

寝室が5、6室もある、あるいは10室以上ある豪商の家、貴族の館、城ならいざ知らず、1600~1700年代の家は恐ろしく狭かった。中世からの伝統か城壁に囲まれた狭い空間に街を造り、身を寄せ合うように暮らしていた。アイゼナッハのバッハの家もハレのヘンデルの家も、彼らが暮らし育った時とは相当違うらしいが、それにしても天井が低く、鼻先を付き合わせるほどの狭い空間で重なるように生活していた様子が見てとれる。

これは厳寒の冬に暖房を行き渡らせる空間が限られていたことによるのかもしれない。換気はそんなものが必要ないと信じていたのだろうか、空気は恐ろしく悪かった。まさに最悪のコンディションで暮らしていた。

No.26-01
バッハの家。アイゼナッハにあるバッハの生誕の家は博物館になっている

No.26-02
ハレにあるヘンデルの家

中世の庶民の住宅を見て驚くのは、部屋の狭さと、そしてトイレが極端に小さく、少ないことだ。聖トーマス学校では生徒一人一人に尿瓶を与え、それで用を足し、朝、尿を捨て、空にして洗うことを義務付けていた。お隣さんのバッハ一家も同様だったことだろう。

それにしても、水場がないのだ。バケツで井戸から運んできたのだろう。その井戸も貴族のマンションならともかく、城砦の中の狭い住居では、個人の家で井戸、水場を持っているのはむしろ例外で、共同の水汲み場に出向き、下男、下女が家の台所、便所まで運んだものだ。

No.26-03
ライプツィヒの聖トーマス学校
この学校の寮にバッハ家族は住んでいた

バッハの上役にあたる聖トーマス学校の校長として赴任してきたマティアス・ゲスナーがライプツィヒに着いた時、寮は悲惨な状態だった。何よりも狭い空間に多くの給費生(貧乏で才能がある、デキル子はタダで入寮できた)が詰め込まれ、学業はおろか音楽のレベルもがた落ちで、正規の授業料を払っている通いの生徒が激減していた。高名な聖トーマス教会聖歌隊、トマナコアは空中分解寸前だった。応援演奏に駆けつける大学生にもソッポを向かれていた。

私の高校時代、すべての運動部員は一つの狭い更衣室で着替えをしていた。シャワーなんぞなかった。一歩足を踏み入れると、ムッと汗の臭いが鼻についた。そこで何度か疥癬(カイセン)というのだろうか、私たちは“インキン・タムシ”と呼んでいたが、流行ったことがある。これは一人が持ち込むと、アッと言う間に全員に広がった。私たちは、あれは柔道部員が持ち込んだ、いやバスケット部員だ、バレーボール部員だと責任をなすり付け合った。

聖トーマス学校でもこの疥癬が大流行し、根絶できなかった。このように狭い空間に詰め込まれると、ネズミでも共食いを始める。聖トーマス学校の子供たちのモラルの低下は著しかった。生徒同士のケンカは日常的に起こったし、街中、街頭で演奏し、歌って稼ぐお布施は全額学校に納めることになっていたのだが、それを公然とクスネ、酒を買い、泥酔した。

バッハとその家族はそんな環境と隣接し、いやそんな中で暮らしていた。

バッハが生み出す音楽を理解し、尊敬していた校長ゲスナーの執拗な要請で、ケチなライプツィヒ市がやっと聖トーマス学校の改築に重い腰を上げた。ゲスナーの新築校舎構想とまではならなかったが、棟上と言うのだろうか、屋根を取っ払い、3階と中2階を建て増ししたのだ。

これでバッハ家族の住居も広く、日当たりが格段と良くなった。それが1732年のことだ。

がそれにしても、6、7人のヤンチャ盛りの子供が走り回るそばでよくぞ作曲などできたものだと感心する。バッハの2番目の妻アンナ・マグダレーナは、夫が作曲に取り組んでいる時、子供たちや赤ん坊を静かにさせるのに随分と気を遣い、心を砕いたらしい。短腹なバッハは、文字通り烈火のごとく怒鳴り、雷を落とした。

それにあのような住宅事情の下で、一体全体どのような部屋割りをしていたのだろうか。子供たちの数だけベッドがあったのだろうか。麦わらのマットレスを直に床に敷き、しかも一つのわら布団に何人かの子供が重なるように寝ていたのだろう。住み込みの使用人などは、台所や廊下に床に直に寝転がるのが当たり前の時代だった。家長たる者、この場合はバッハ夫妻だが、はまともなベッドに寝ていたと思うのだが…。それでなければ、次から次へとあれほど大量の子供を生産できなかっただろう。

1732年の聖トーマス学校それに隣接するバッハ住居改築以前、アンナ・マグダレーナは8人の子を産み、6人を幼児期に死なせている。それが増築以降、5人産み、一人を亡くしただけで、4人は生長らえた。これは改築以前のバッハ一家の住宅事情が、劣悪だったせいではないだろうか。

-…つづく

 

 

第27回:バッハとセックス その2

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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