第34回:バッハの晩年とその死
メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』をベルリンで再演したのは、バッハが最後に演奏してから100年近く経ってからのことだ。細々とではあるが、バッハの鍵盤の曲は演奏され、楽譜も出版され続けていたが、それにしても、どうして『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ』などが100年もの間埋もれていたのか、その間一度も演奏されなかったのか不可解だ。
バッハが生きていた17世紀後半から18世紀にかけて、ヨーロッパ全体の平均寿命は30歳半ばだったと想像されている。それは、幼児死亡率が極端に高く、たくさん産み、自然淘汰のように、抵抗力のある丈夫な子だけ生き残ればそれで良しと信じていたとしか思われない状態だった。幼児期を生き残り、無事30、40を越した人間は、優性遺伝子をフンダンに持っているのか80~90歳までの長寿をまっとうするのは珍しいことではなかった。
バッハは1750年7月28日、65歳で死んだ。晩年の2、3年は何度か脳卒中を起こしているし、目が次第に不自由になり、最後、ほとんど全盲になった。死の4ヵ月ほど前に、イギリス人の眼科医ジョン・テーラーなる人物がザクセンを通りかかった時、眼の手術を受けている。だが、見事に失敗し、前よりも酷くなり、立派な全盲になった。
安藤美恵子の著書『目に効く眼の話~歴史の中の「眼」を診る』によれば、晩年のバッハはすでに白内障から緑内障に移行しており、当時の手術のレベルでは水晶体移植などは想像外のことで、逆に手術で眼内炎を起こし、網膜剥離の併合症を起こしていたのではないかとある。
多分に逸話であろうが、日本では馬島流十三世の円慶法印が後水尾天皇(すでに上皇だったか?)の白内障を手術した話が伝わっている(日本眼科史)。時に天皇(上皇)37歳で、その後84歳まで剛健だったという。
実に1630年頃の話で、バッハがジョン・テーラーの手に掛かる100年以上も前のことだ。東西の極端な例だとしても、日本医術のレベルの高さが伺える。単にジョン・テーラーがヤブ医者だっただけなのかもしれないが…。
暴飲暴食の徒であったバッハが糖尿病性の網膜症を患っても不思議ではない。今なら誰でも糖尿病が眼底出血を起し、全盲に繋がることは知っているのだが。そういえば、ヘンデルも併合症で失明したのでなかったか…。
時代はグンと遡るが、ミケランジェロも最晩年に失明している。が、彼は89歳まで生きたし、バッハ、ヘンデルと違って暴飲暴食とは正反対の超粗食派で、食べるのはただ生命を維持するためだけ…と取っていたフシがあるから、老衰に伴う失明だったのだろう。
あの創作意欲の塊のようなミケランジェロでさえ、晩年には一つの作品を仕上げ完成させることができなくなっている。大理石に荒々しく刻み込んだだけで、途中で投げ出した石の塊が多くなっているのだ。
髭の奴隷とアトラス
これらを、一つの完成された作品、これ以上手を加えることができない
絶対的な彫刻だと詭弁を弄する人は多い。これら未完の奴隷シリーズは6体ある。
確かに、ミケランジェロの創作過程を知るには興味のある作品群だ。
だが、20代で完成させた艶やかなピエタ像を見る時、これらの石の塊にミケランジェロの
老いを見出し、エネルギーの枯渇を観るのは私だけなのだろうか。
もしこれらの彫りかけた大理石の塊を、ミケランジェロの弟子が 荒削り、
下準備をしたものだと云われれば、そのまま信じるだろう。
サン・ピエトロ大聖堂のピエタ像
私は、バッハ晩年の器楽曲に、ミケランジェロの彫りかけた大理石を観る。
音楽家、作曲家にとって致命的な聴力がなくなったのがベートーベンだ。彼が使っていた豆腐屋のラッパみたいな補聴器が、デスマスクと一緒に博物館『ベートーベンハウス』で見ることができる。なんとも趣味の悪いことだが、著名人が死んだ時に顔に石膏を塗り、型を取り、デスマスクなるものを作る伝統が西欧にある。その時に邪魔になる髪を切る。死んだ最愛の人の髪の毛をペンダントや指輪に入れ肌身離さず持ち歩いたりする。
そんなベートーベンの髪の毛がアメリカの好事家の手に落ち、ベートーベンの死因を探求していた医療グループに貴重な試料として渡った。そのベートーベン死因解明グループのレポート、および記録映画によると、死因は明らかに鉛分が体内に蓄積されたことによるものだとしている。現代人の通常の数十倍の鉛が彼の髪の毛から検出され、それが彼の難聴に、強いては死に繋がったというのだ。
彼が晩年を過ごしたウイーンでは(ウイーンだけではないだろうが…)水道は鉛パイプで給水されていた。それが鉛分を蓄積し易い体質だったベートーベンの身体に溜まりに溜まり、健康を損ね、完全に耳が聞こえなくなり死んだと言うのだ。
私たちがプエルトリコに住んでいた時、ヨット仲間の子供が体調を崩し、散々医院を回った挙句、彼の血液から大量の鉛が見つかり、それが原因だと診断されたことを思い出した。プエルトリコで私たちは幸い、ただ味のためだけで飲み水を買っていたのだが…。
ベートーベンの死因はこれで解明されたわけではない…と思う。死因の一つとして鉛分の多い水を飲んでいたことはあるだろうけど、そうなると、ウイーンでベートーベンと同じアパート、地区に住んでいた全員が鉛分過多で発病したかどうか、調べなければならなくなる。
バッハのケースは今流で言うならハイ・コレステロールに伴う高血圧、糖尿病系の眼底出血で全盲になり、血脳溢血を繰り返し死んだと言い切ってもそう外れてはいないだろう。あの時代で65歳の生涯は長寿に属する。1750年7月18日、バッハは突然視力を回復したが、瞬時のことで、また高熱を発し、脳卒中に倒れ、28日の午前08時45分に消え入るように息を引き取った。看取ったのは妻のアンナ・マグダレーナ、末っ子のヨハン・クリスチャン、娘のエリザベート、彼女の夫のアルトニコルだった。
頑健な骨太の肉体と強固な意思、尽きることがなかった創作意欲を持ったバッハは、目が不自由になってからも1年近くも生きながらえたが、それも燃え尽きた。辞世の言葉は伝わっていない。意識不明になってから10日生きていた。その間の逸話は多いにしろ、バッハの死に直接立ち会った妻のアンナ・マグダレーナ、娘、娘婿のアルトニコル、そしてクリスチャン、誰も明確にバッハの死の状況を語っていない。
最後の最後まで『フーガの技法』の楽譜を手放さず、そこに記された間違いをアルトニコルに指摘した…、まるで視力が蘇ったように、と伝えられている。
生産機のように子供を生み続けたアンナ・マグダレーナは、余程頑丈なできだったのだろうか、バッハの死後10年を赤貧の中で59歳まで生きた。彼女も当時の平均寿命をはるかに上回る命をまっとうした。
-…つづく
第35回:アルプスの北は文化の僻地、すべての芸術は南国にあり
|