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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第21回:ライプツィヒ、聖トーマス教会のカントル職 その1

更新日2022/04/14

 

そして、バッハが27年もの間カントルの職に在ったライプツィヒの年収は、初年700ターレルという約束だった。しかし、実際に市参事会から支払われたのは本俸87ターレル、ほかに光熱費として13ターレル、それに現物支給で穀物、薪、クリスマスにぶどう酒だけで、何のことはない約束の給与の6分の1でしかなかった。あとは自分で稼げ、いとも賢きライプツィヒ市参事は、街頭で歌い、演奏することを認めるから、そこでお布施を貰え、町中で流しをやれ、おひねりで稼げと言うのだ。

市参事、聖職者会議もそれなりに仕事を回すから、それで不足分は賄えと言うのだ。祝祭日、結婚式、葬式、それに町中での流しの実入りは大きかったにしろ、でも一体、年に500~600ターレルものお布施が集まるものだろうか。バッハは少年時代に街頭で歌い、集めたおひねりをカントルにかすめ取られたが、今度は子供たちが稼いだ金をぶんどる立場になったのだ。

私が東ドイツ時代にライプツィヒ、聖トーマス教会詣でをした顛末は、このコラムの最初の頃に書いた。現在、バッハフェスティバルのメイン会場になり、文字通り世界中から聴衆を集めているが、聖トーマス教会自体はドイツの田舎の貧相な教会で、質素、簡素な美しさがあると言えばあるのだろうけど、スペインのアンダルシアの小さな山村にあるカトリック教会の方が豪壮に見えるほど、聖トーマス教会は飾り気のない、小さな教会だ。

もしバッハがここのカントルを勤めなかったら、訪れる者は誰もいないであろう。娘と結婚しなければならないというヒモ付きだったリューベックの聖マリエン教会、大金を上納しなければならないハンブルグの聖ヤコブ教会、それどころか隣町ハーレの聖マリエン教会に比べても見劣りがする。聖トーマス教会はバッハがそこにいた、不満タラタラの態であったにしろ27年間カントル職にあり、そこで亡くなったという一点で世界中から観光客が集まり、世界に数ある音楽祭の中でも最高峰とされるライプツィヒ・バッハ音楽祭の牙城になっている。

今でこそ、ライプツィヒ、聖トーマス教会イコール(­=)バッハと呼ばれ、思われているが、バッハが聖トーマス教会のカントル職に就いたのはいくつかの偶然が作用していた。

1722年6月2日にそれまで聖トーマス教会のカントルを28年間勤めてきたクーナウが死んだ。クーナウは煌めくような才能はなかったが、職務に忠実で、かつ優れた音楽家だったとされている。何よりも温厚な性格で、角付き合わせることがなかった。クーナウが死んだ時、彼の弟子のヨハン・フリードリッヒ・ファッシュとかクリスチャン・F・ロレといった優れた音楽家が候補に挙げられ、バッハは候補者の中に入っていないし、応募もしていなかった。

候補の筆頭に挙げらたのは、ゲオルグ・フリップ・テレマンだった。市当局はテレマンを取れると楽観していたようだ。なにせテレマンは、ライプツィヒで大学に在籍(音楽ではなく法学部だった)していた経歴があるし、学生時代に器楽のグループを組織し、その巧みな演奏でライプツィヒ市民に親しまれていた。その上、テレマンはいとも容易に次ぎから次へと大量の作曲をしていたから、演奏だけでなく作曲の能力も証明済みだった。

テレマンは一種の何でも屋で、あらゆる種類の音楽に手を出していた。器楽の独奏、合奏、声楽、教会音楽、鍵盤音楽、流行し出したコーヒー店用の音楽、はたまた日曜、祭日に郊外の公園で奏でる音楽、そしてオペラも作っていた。テレマンはライプツィヒ大学で法学の学位を取っており、音楽は片手間の楽しみだった。音楽は趣味だったのが肥大し、のめり込み、音楽の魔力に取り付かれたかのように、作曲家、演奏家になった人物だった。彼は溢れる才能を持ち、かつ世俗性を見極める目をも同時に持っていたと思う。

テレマンはバッハの4歳年上のほぼ同時代の作曲家と言って良いだろう。バッハとの大きな違いは、バッハがチューリンゲン内だけで活躍し、知られていたのに比べ、テレマンは21歳の時に法学生の身分のままライプツィヒの新教会のオルガニストになり、クーナウに替わってカンタータを5曲自作自演しているのを皮切りに活躍の場を広げて行った人物だった。

ライプツィヒの市当局がクーナウの後継者として白羽の矢を立てた時、テレマンはフランクフルト(フランクフルト・アン・マイン)の教会楽長兼音楽監督(教区にある五つの教会すべての、そのどれを取っても聖トーマス教会より大きなものだった)に就任し、そこから派遣されるようにハンブルグの宮廷楽長にして市の音楽監督に就任していた。ライプツィヒ、聖トーマス教会のカントル探しが始まった時、テレマンはすでに大作曲家としてヨーロッパにその名を轟かせていた。

No.21-01
ゲオルグ・フィリップ・テレマン
[Georg Philipp Telemann]
現実的な経済感覚を持っており、お金に執着するところがあった
とされているが、それが彼の音楽を損なうものではない…と思う。
吝嗇だったと言われているミケランジェロの作品が
それによって損なわれることがないように…。

ライプツィヒ市当局は、本気でテレマンを呼べると思っていたのだろうか。ザクセンの中都市ライプツィヒに大都市ハンブルグの音楽監督の職を捨てて来てくれると思っていたのだろうか。この求人キャンペーンを今見ると、ライプツィヒの市当局の地方性、田舎者でヨーロッパ全体はもとより、ドイツ語圏内の国際性を見る目のなさに呆れてしまう。この勝負は汎ヨーロッパ性を身に付け、引く手あまたのテレマンに軍配が挙がるのは目に見えていた…と思う。

ライプツィヒ市当局はともかくテレマンを呼び、試験というのか、模範演奏をして貰おうということになった。テレマンは悠長に 大いに結構、自作のオルガン曲とカンタータを演奏しましょう、それにつき、旅費として22グルデン18グロッシェンを前払いしてもらいたいと言ってきたのだ。

これはバッハの初年の年給の4分の1に当たる。それをライプツィヒ市はすんなりと支払っただけでなく、演奏するカンタータを600部印刷、製本したのだった。ライプツィヒ市は揉み手で頭を低くし、まるで懇願するように、テレマン様、こちらにお出でくださいとやったのだ。

最終的にこの契約書にサインさえしてくれれば内定だ、テレマンに決まりだと市当局は楽観視していたフシがある。その契約書、五箇条の御誓文ならぬ14箇条の契約書が残っている。市当局の法律家が額を寄せ集めて作ったのであろう、この契約書を法学の基礎知識があるテレマンは、一目でガンジガラメにされるこんな誓約書にサインできるものではないと見破ったに違いない。

時の市長ランゲは、テレマンが急用でハンブルグに帰らなければならないから契約書にサインするのはチョッと待って貰いたいと言い出した時に、まだテレマンがライプツィヒに戻ってくるものと信じていたフシがある。テレマンが請求した帰りの旅費、行きと同じ22グルデン18グロッシェン、それに加え10グルデンの特別仕立ての郵便馬車料金(おそらく特急馬車
だったのだろう)を支払っているからだ。

テレマンを呼び試演させるだけで、ほぼバッハ初年の給与とほぼ同じだけライプツィヒ市は費やしていることになる。それに、テレマンのカンタータ、600部を印刷した費用もある。

-…つづく

 

 

第22回:ライプツィヒ、聖トーマス教会のカントル職 その2

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第2回:ライプツィヒという町 その1
第3回:ライプツィヒという町 その2
第4回:ライプツィヒという町 その3
第5回:ライプツィヒという町 その4
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