2月21日の東北地方は例年なら寒いはずだ。しかし今年は暖冬で気温が高い。窓を締め切った車内は温室のようだ。はっとを食べて満腹な私は、やがて訪れる睡魔と戦わなくてはいけない。なぜなら、今回の旅の主な目的がこのくりはら田園鉄道だからである。この路線はあと1ヶ月ほどで廃止になる。居眠りをして景色を見逃すと乗り直しがきかない。そう思ってしっかり景色を眺めてみるけれど、沿線はただ畑が広がるばかりである。世界の貧困のニュースを見聞きすれば、ここが荒野ではないというだけで喜ばしい。これだけの畑を作るために、何世代の人々がこの土地を耕してきたのだろう。そんなことを考えると気が遠くなる。いや違う。眠くなってきているのだ。
田んぼが広がる。豊かな土地である。
第三セクターというと旧国鉄の赤字ローカル線がほとんどだが、くりはら田園鉄道の前身は栗原電鉄という私鉄だった。さらに遡れば栗原軌道という軽便鉄道で、当初は沿線の穀物類の輸送を担い、細倉鉱山まで延伸してからは鉱石輸送も手がけた。穀物輸送はトラックに奪われても、鉱石のように重いものを大量に運ぶためには船や鉄道が適している。栗原電鉄は鉄鉱会社の後ろ盾で地域に貢献した。地方鉄道にしては珍しく前線が電化されていたが、積載物の重量に対して、蒸気機関車では牽引力が不足するためであった。
その後、栗原電鉄は貨車を国鉄と直通させるために軽便鉄道の線路幅を広げ、仙台直通の旅客列車も走らせていた。自動車が普及して旅客が減ったとしても、鉱石輸送の収入がある。この地域にとって鉄道は重要であり、栗原電鉄の経営は厳しくても、廃止されることはないと思われた。細倉鉱山の地元への影響力は大きく、創業者は仙石線の建設にも関与していたほどであった。
しかし、日本の工業力が世界に認められ、高度経済成長時代に入ると、予想外の事態が起こる。円高による工業原料の輸入シフトだ。原料鉱石は輸入品のほうが安くなり、国内産出品が敬遠されるようになった。そして長い間日本の近代化を支え、この地域に大きく貢献した細倉鉱山が1988年に閉山する。この閉山日は残務処理が終わった日だと思われる。栗原電鉄の貨物営業廃止は1987年3月だから、おそらく鉱山の実質的な操業停止もこの時期だったのだろう。
若柳駅にて。引退した電車。
元名鉄のディーゼルカー。
鉱石輸送という大きな収入源を失った栗原電鉄に、公共輸送という荷物が残された。鉱山鉄道に付属する社会貢献事業だったはずが、唯一の収入源になった。もちろん採算が合うわけはなく、しかも簡単には辞められない。経営はどんどん苦しくなり、親会社の鉱業会社も支援を渋り始めた。結局、公共事業主体なら自治体が運営すべきという結論に至り、第三セクターのくりはら田園鉄道となった。
石越から二つ目の若柳駅に栗原電鉄時代の名残があった。くりはら電鉄時代の電車たちである。くりはら田園鉄道は列車本数が少ないため、電車の運行をやめてしまったようだ。線路脇には架線柱が立っているが、一部のぞき架線は外されてしまった。現在は電車も電気機関車も走らない。列車はすべて臙脂色のレールバスに置き換えられている。走らない時間も通電して電力料金を払うよりも、走らせるときだけ給油した方が良いという考えだ。九州新幹線の開業で第三セクターとなった旧鹿児島本線も同様である。
若柳には私が乗っている列車とは違う色のレールバスが留置されていた。その色に見覚えがある。あれは名鉄のローカル線で走っていた車両ではないか。名鉄がローカル末端区間を整理した後、レールバスたちは海外に送られたと聞いていたけれど、一部はこちらに転属されたようだ。後に調べたところ、私が名鉄で乗った車輌ではなく、その前に引退した車輌だった。前後輪が1軸しかないという珍しい車体で、近代レールバスの元祖だという。せっかく新天地に来たというのに、ここでも廃止になってしまうとは不運な車両である。
まっすぐな線路。
若柳から谷地畑を過ぎるまではほぼ直線で結ぶルートだった。大岡小前から先は定規で引いたような直線ルートになった。沿線は相変わらず田畑で、住宅は車窓左手の少し離れたところに並ぶ。だからあちらに道路があり、生活の中心があるのだろう。栗原軌道はもともと貨物輸送を目的としていたようだから、賑わう場所を避けて、まっすぐに線路を敷いたらしい。インターネットで航空写真を見るとよくわかる。栗駒あたりまでは田畑に囲まれた直線路が続いている。
栗駒では10人ほど降りて、10人ほど乗った。周囲には三脚を立てた人が数人いた。ひと目で鉄道ファンとわかる人だけではなく、名残を惜しむ地元の人々もいる。くりはら田園鉄道の廃止は地元の大きな反対運動もなく、スムーズに進められたように思う。実際は紆余曲折もあったのかもしれないが、報道を見聞きする限りでは静かだった。しかし、地元に見限られたわけではなかった。行く末を案じながらも応援し続けた人々がいる。しかしそれは何としてでも残そうという運動ではなく、最後まで優しく見届けようという姿勢に見えた。
栗原田町から尾松へ向かって上り勾配があった。平野部が終わり、これから鉱山へ向かう山道だと思ったら、尾松駅を出ると山道は終わった。その尾松の佇まいが良い。崖の下にあり、窮屈に進路を変えられた線路。その曲線に合わせた形のホームがひとつ。もちろん無人駅である。風よけのための小さな待合所には窓が開いているが、そこにはあるべきはずのガラスがない。寂しすぎる。夜、こんな駅で最終列車を待っていたら、不遇でなくとも涙が出そうだ。
尾松駅。
尾松を出ると車窓は再び田園地帯となった。さっきの山道がくりはら田園鉄道の車窓の見せ場だったようだ。少々短くて物足りない気分でいたら、鶯沢から先はふたたび山道になった。遠くにコブのような面白い形の山を眺め、時計台がおしゃれな鶯沢工業高校をかすめて、さらに険しい山道を走る。このあたりはまだ架線が張られている。撤去費用を渋っているのかもしれない。
終着駅の賑わい。
終着駅手前の廃駅は旧細倉駅だ。かつてはここが旅客営業の終点であった。細倉鉱山が閉山し、ここから先の貨物路線がいったん廃止された。しかし、細倉マインパークができたときに、旅客用途で現在の細倉マインパーク前まで延伸された。テーマパークへとなった鉱山への便を考えてのことだったけれど、やはりクルマで訪れる人のほうが多いのだろう。くりはら田園鉄道は廃止されるけれど、マインパークの営業は鉄道の接続とは関係なく続くらしい。
そう思ったら、マインパークなど見学できなくてもいいやという気持ちになった。もともと予定より1本遅い列車に乗っていることだし、この列車でとんぼ返りすれば日程を取り戻せる。レールバスが終着駅に着くと、行きの車中の3倍くらいのお客さんがホームで待っていた。折返しの石越行きは大混雑だ。話を聞くと、仙台発のくりでんさよなら日帰りツアーに参加したという。バスでマインパークを訪れ、若柳まで鉄道に乗り、若柳からはバスで仙台に帰るツアーだ。
上品ないでたちの老婦人はデジタル一眼レフカメラに立派な望遠レンズをつけていた。地元のカメラクラブのメンバーで、今回の撮影会のお題がくりはら田園鉄道だそうだ。車内は私のような鉄道ファンと地元の見物客がほとんどであった。鉄道ファンたちは一様に廃線の寂しさを表情に浮かべている。地元の人々は鉄道の最後を楽しもうとしている。廃止路線にも円満退社はあるんだな、と思った。
細倉マインパーク駅に飾られた旧型車両。
-…つづく
第182回からの行程図
(GIFファイル)