弁当の旨味に刺激され、頭の中がスッキリしてきた。食べている最中に列車が走り出している。線路は低いところにあり、南風3号の車窓は建物の勝手口や切り通しを映す。裏通りの露地を走っているようだが、高架化工事が終われば高知の街を見渡せるようになるだろう。地域の車窓風景には定番のイメージがあって、例えば北海道は広大な平野、九州なら濃く深い緑の山道を連想する。果たして四国はどうだろう。そんなことを車内放送を聞きながら考えている。
車内放送は特にのんびりしていたわけではないが、次の停車駅の旭まで続いた。車掌さんは約4分間も話し続けたことになる。3両編成だから列車編成の紹介は短くて済むけれど、高知から先の停車駅が多いのだ。終着駅の宿毛を含めて12駅に停車し、走行距離は96km。関東の私鉄特急並みの距離だ。この経路はすべて高知県内、それも西半分である。東西に長い高知県、確かに広い。
仁淀川を渡る。
土讃線は香川県の多度津から四国を縦断し、阿波池田、高知を経て西に進み、窪川に至る延長198.7キロの幹線である。四国のJR路線網は高松と愛媛県の宇和島を結ぶ予讃線、高松と徳島を結ぶ高徳線、そしてこの土讃線の3系統が基軸になっている。国鉄時代、この3路線は土讃本線、というように"本線"という路線名だった。しかし現在は本線の呼称は使わない。いきさつは不明だが、四国は路線数が少なく、本線、支線の区別や体系が重要ではなかったのかもしれない。
土讃線はJR四国の路線では2番目に長い。そこに敬意を表するならば、起点の多度津から乗り通してみたいけれど、高知から西へ向かうルートを先に乗る行程も悪くない。なぜなら、こちらの方向が高知線として先に作られたからだ。
まずは太平洋岸の須崎から東へ向かって建設が始まり、1924(大正13)年に日下まで、同年のうちに高知までの40キロが開通した。高知からさらに瀬戸内へ向けて延伸されて、10年後の1935(昭和10)年に三縄で多度津から延びた線路と繋がり、高知線は土讃本線に含まれた。
つまり、土讃線は多度津から根を伸ばすように延伸した路線ではなく、瀬戸内側と太平洋側に分散して建設が進められた。なぜなら、鉄道建設の資材が船で運ばれたからである。須崎は大型船の港に最適な入り江にある。須崎駅は須崎港に隣接し、この辺りの線路は入り江にピッタリと沿っている。高知の鉄道の起点は須崎なのだ。だからまず高知から西へ向かう。もっとも進行方向は逆だし、私は船ではなく飛行機で来たから、先人の苦労を偲ぶ資格もないけれど。
誇らしく鯉が泳ぐ。
南風3号はその須崎へ向かっている。伊野までは土佐電鉄が併走しているはずだが、電車の姿を見かけなかった。伊野を過ぎると幅の広い川を渡る。これは仁淀川といって、吉野川、四万十川に次いで四国で3番目に長い川だそうだ。地図を見ると源流は愛媛県にあり、四国でもっとも高い石鎚山から流れ出ている。なるほど長い川である。
国土交通省の資料によると水辺利用率が全国一位。地元の人々なら誰もが親しんでいる川だ。吉野川や四万十川に比べて知名度が低い理由は、観光客が利用する鉄道や国道が沿っていないためだろうか。しかし、名前が喧伝されなかったせいか自然が保たれ、水質は全国で3位、四国で1位となっている。伊野という街は、仁淀川の自然の恵みと水運で栄えたのだろう。いつか土佐電鉄で訪れようと思う。
仁淀川の川幅は人々にとって自然の境界となっているようで、鉄橋を渡ると市街地の密度が下がり、緑が濃くなってくる。高知県は東西の両端に岬があり、地図を見ると「へ」の字に似ている。土讃線はまっすぐ西へ向かうから、ますます海と遠ざかる。高知の西側の海岸沿いは山が険しく、人々は内陸部の川沿いに住み集落を作ったらしい。高知線は須崎と高知を直線で結ばず、川沿いの町を辿っている。車窓の両側に山が見える、その手前に水田が広がり民家が並ぶ。小学生の頃、友達の話を聞いて思い描いた田舎はこんな風景だ。私は両親とも東京出身で、田舎へ帰る友達が羨ましかった。
大きな鯉のぼりがいくつも見えた。童謡の歌詞そのままに、屋根よりも高い位置に誇らしく掲げられている。誇らしく……そうか。私は鯉のぼりの意味に思い至った。「我が家には家督を守る男の子がおりますぞ」という喜びだ。鯉のぼりは江戸時代の武士の家で飾られ、男の子の立身出世を願ったものだという。もちろんその意味もあるだろうけれど、青空にりりしく泳ぐ目印は、祈願にしては目立ちすぎる。鯉のぼりは男の子がいるという印。位の高い武士、あるいは殿様の目に止まりたい、という意図もあったに違いない。
須崎駅構内。
南風3号は柳瀬川に突き当たって左に曲がり南進する。12時ちょうどに佐川着。川が交わるところであり、古くから人々が住んだ場所のようだ。ここから土讃線は険しくなり、ついにトンネルに入った。いままでたっぷりと太陽を浴びているだけに、約1分間の闇はかなり長く感じる。しかしここを過ぎれば下り坂。海へ向かって駆け下りる。谷間を過ぎ、車窓左側から山が消える。平野部をしばらく走ると、海が見えた。初めて車窓から見る四国の海だ。
南風3号は入り江を丁寧になぞって須崎着。リアス式海岸に守られた須崎港は古来より漁港として栄え、海が荒れたときの避難場所として寄港する船も多かったという。平安時代中期には豪族の拠点となり、江戸時代には山内一豊の所領となって、商業の中心として栄えた。工場プラントの手前に丸太が積まれている。現在は石灰石や木材の積み出し港として国際貿易港となっているそうだ。車窓からは大きい港には見えないけれど、高知県の港湾取扱貨物量の半分は須崎港だ。
後部1両はアンパンマン車両。
上り南風と交換。
須崎では6分間停車する。特急列車にとって6分停車は長い。しかし、上り特急列車の南風16号とすれ違うためだから仕方ない。土讃線は幹線だが単線である。山越えのトンネルが多く、国鉄時代でさえ複線化の費用を捻出できないまま今日に至った。トンネル断面が小さいため電化もされていない。JR四国が"本線"格を返上した理由も、この設備状況に恐縮したからではないか、と憶測する。
この6分間。都会のビジネスマンならイライラしそうだが、南風3号の乗客は特に慌てる様子もない。ホームに出て外の空気を吸い、軽い運動を楽しむ人もいる。時間に対する感覚が都会の特急利用者とは違う。私も所用があって乗っているわけではないから、ホームに出て背を伸ばし、ホームを散歩した。南風3号の3両目は車体にアンパンマンの絵が描かれていた。こどもに人気のキャラクターで、原作者のやなせたかし氏の出身が高知県出身という縁で誕生した車両だ。
須崎を出ると、車窓にはしばらく海が見え隠れする。長短のトンネルが多く、敷設の難所だったに違いない。海沿いを進めばいいのにわざわざ山道を選ぶなんて、と思うけれど、この辺りはリアス式海岸で、海沿いもやっぱり難所だったと言える。海が荒れやすかった、という事情があるのかもしれないが、高知の人々は海より川を好んだらしい。土佐久礼で海と決別すると、土讃線は山道を進む。何本もの尾根が海に降りていくから、土讃線はいくつもの峠を越えることになる。
土佐久礼駅付近から双名島を望む。
小さなトンネルを潜り抜け、最も長い影野トンネルの闇が明けると仁井田川沿いの谷間に出る。整った水田が続くようすを眺めると、里に下りてきたんだな、と思う。そんな平和な景色もトンネルで遮られ、開ければそこは四万十川中流の町、窪川だ。土讃線の終点であり、土佐くろしお鉄道中村線の起点でもある。
南風3号はここで10分も停車する。しかし今度はすれ違う列車はない。南風3号はここから土佐くろしお鉄道に乗り入れるため、乗務員が交替する。しかし、それだけの理由でもないだろう。岡山から4時間もかけて走ってきた列車は、終着駅と始発駅に敬意を表しつつ、ラストスパートのために息を整えているのだ。たった3両のディーゼル特急に、こんなダイヤが組まれるとは。これぞ主役級列車の貫禄というものだ。
窪川着。
-…つづく
第144回からの行程図
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