初めて訪れる四国。その最初の車窓がバスになるとは思わなかった。乗り潰しの旅を始めたときから、四国へ行くなら東京発の寝台特急『瀬戸』で宇野へ。そして宇高連絡船で高松に渡ると決めていた。時が流れ、本州と四国に橋が架かり、客車寝台特急『瀬戸』は電車寝台特急『サンライズ瀬戸』に変わった。それでも私は"目覚めたら瀬戸内海"という四国への旅を思い描いた。
しかし、そんな決意はなかったように飛行機で四国に入り、本州から見たらもっとも奥の高知から旅を始める。四国を訪れる旅がこんな始まりになるとは、四国八十八箇所参りを考案した弘法大師様でさえ思いつかなかったに違いない。
それもすべては切符代と時間を節約するためである。四国一周と言えば、まず周遊きっぷの利用が思い浮かぶ。しかしJR四国は他にもさまざまな割引きっぷを用意している。その中でも注目すべききっぷは『バースディきっぷ』だ。誕生日のある月に限り購入できるきっぷで、JR四国と土佐くろしお鉄道の全線に乗り放題。3日間有効でグリーン車も利用できる。そして値段は1万円ポッキリだ。周遊きっぷの四国ゾーン券ははこれより高い1万2500円。グリーン車には乗れないし、本四連絡橋もゾーンには含まれない。
高知駅。電停の花壇が美しい。
バースディきっぷの良いところは、現地までの交通手段が含まれないことだ。周遊きっぷは往復の乗車券とセットで買わなくてはいけないから、現地までは鉄道利用が前提になる。しかし、バースディきっぷを使うなら、四国まではどんな交通手段を使ってもいい。高速バスでも飛行機でも、船でもいい。今回の往復は格安航空券を利用して安くすませた。周遊きっぷも片道は飛行機を利用できるけれど、片道は鉄道利用という縛りがある。
ちなみに東京から四国の入り口の宇多津までのJR乗車券は1万500円。周遊きっぷの2割引特例で8400円。これに新幹線と在来線の特急券を加えると1万4000円になる。寝台特急なら1万8900円だ。これに対して、ANAの旅割は東京から四国の各空港が1万円台前半に収まる。搭乗日の28日前までに予約するという条件はあるが、往復で3万円以下という安さは魅力的だ。なによりも、時間を大幅に節約できるところがいい。
空港バスの車窓から見た高知は初夏の日差しに照りつけられている。特に南国を感じさせるような建物や樹木は見あたらないけれど、窓を開けて走っているクルマが多い。もはや半袖が似合う季節らしく、バスにも冷房が入っている。市街地に入ると「電車だ」と話し声が聞こえる。高知出身の人々にとって路面電車はふるさとに帰ったと実感させる乗り物らしい。けなげに走る電車を見ると乗りたくなる。しかし今回は乗らない。欲張らず、バースディきっぷの範囲で乗り降りしようと思っている。1回の旅で四国の鉄道をすべて乗り終えたくない。という気持ちもある。ゆっくりじっくり攻略したい。
バスは空港から約30分で高知駅に着いた。路面電車は駅前まで乗り入れており、電停の周囲に作られた花壇が鮮やかだ。駅付近の並木は背の高いソテツである。ソテツは北関東でも見かけるけれど、降り注ぐ陽光と半袖シャツ、窓を開放したクルマを添えて南国情緒ができあがる。北から来た私は薄手のトレーナーを着て場違いな装いだ。今は風が冷たいのでちょうどいいが、昼を過ぎれば暑くなりそうだ。
私はみどりの窓口に行き、免許証を提示してバースディきっぷを買った。窓口氏はいつもと同じといった風に機械を操作している。バースディきっぷの利用者はかなり多いようだ。席をお取りしますか、と訊ねられて、私はグリーン車に乗れることを思い出した。11時34分発の南風3号のグリーン車を希望する。グリーン車乗り放題のきっぷを持っていたとしても、実は四国にはグリーン車が少ない。この南風号をはじめ、岡山に接続する特急列車に連結されているだけだ。
「グリーン車に乗り放題のきっぷだけど、実は四国ってグリーン車が少ないですね」と言うと、窓口氏は「そうですね」と困った顔をした。冗談のつもりだったが、働いている人を困らせるのは本意ではない。「ここで乗っておかなくちゃ」と続けると頷きながら笑ってくれた。発券の間に気付いたことだが、窓口のカウンターはガラスで仕切られ、枠組みの木に艶がある。昔の駅舎の名残かと聞くと、窓口氏は「たぶんそうでしょう」と応えた。
高架化工事が進行していた。
高松駅はコンクリート製のこぢんまりとした駅舎だ。しかし改札を通れば国鉄時代の独特の風格が残っている。構内は意外と小さくてホームは2本、乗り場は3番までしかない。これでも県庁所在地の駅である。列車の本数が少ないからこれでも足りるのだろう。四国における鉄道の位置づけがなんとなく予想できた。列車は日常の足と言うよりも、ちょっと遠くに行くための乗り物のようだ。
駅付近の高架化工事が行われているようで、ふたつのホームの向こうには橋脚が並んでいた。新しいから白さが眩しい。大理石の彫刻のようにも見える。電車を待っていると私のそばに交替の運転士が立った。「工事はいつ頃完成するんでしょう」と話しかけたが、さぁ、と首をかしげていた。「遅れているんですよ」と言い、「まぁこういうのは遅れるもんでしょう」と続けた。何もかものんびりしているけれど、南風3号は定刻に到着。ダイヤはかっちりと守られている。
5両編成でやってきたディーゼルカーの特急列車は、ここで後部2両が切り離される。この2両は高松と高知を結ぶ特急しまんと5号である。南風3号は山陽新幹線に接続し、岡山から3両で出発して瀬戸大橋を渡り、宇多津で高松からきたしまんと5号を連結する。四国の玄関として君臨した高松と、新しい玄関の瀬戸大橋の両方に義理を通した運行だ。高知からは再び南風3号の単独運行となり、土佐くろしお鉄道に乗り入れて高知県の西端の宿毛駅に至る。岡山から宿毛までの走行時間は5時間以上。四国を縦断する特急列車である。
南風3号が到着。
3両編成は利用客数に合わせた結果だろう。グリーン車は1両目の運転席側前半分で、乗客は私を含めて3人。仕切りの後半は普通車の指定席で満席だ。私の席は3列シートの海側でひとりがけ。飛行機のビジネスクラスに相当する大きなシートである。これが四国のおおらかさだろうか。こんなに贅沢な空間を知ってしまうと、東海道線のグリーン車に金を出す気が失せる。関西のグリーン車はJRも私鉄もゆったりとしており、その心地よさを知ってしまうと、関東にはもはや贅沢な空間など残されていないのだと思い知らされる。
グリーン席はゆったり快適。
運転士の交替や車両の切り離しがあるせいか、高知駅の停車時間は長い。私はシートに落ち着くと駅弁の包みを開けた。かつおめしといって、甘辛く煮た鰹を炊き込んだ混ぜご飯である。高知駅の名物駅弁はかつおたたき弁当だそうだが、私は生気の残る魚は食べられない。このかつおめしも店員に火が通っているかどうか確認して買った。魚の臭みはなく、醤油飯の香りが立ち上る。ほかに食べられそうなものがない、という理由で買った駅弁だが、これが意外にもうまい。酒のつまみに銀紙で包まれたツナの珍味があるけれど、あれを上品にして混ぜ込んだご飯である。飯に旨味がしみこんで、飲み下すのが惜しくなるほどいい味だ。私は司馬遼太郎の『龍馬がゆく』で、坂本龍馬が炊き込みご飯を食べるくだりを思い出した。混ぜ飯はいいな、飯と菜が一緒に食える、だっただろうか。この鰹の味は、私に四国の旅の始まりを実感させた。
土佐にきて、うまい駅弁を1本釣り。幸先のいいスタートである。
安くてうまい"かつおめし"
-…つづく
第144回からの行程図
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