第591回:禁酒法と順法精神
なんだか偉く大上段に構えたタイトルになってしまいましたが、いつものように先にこのエッセーを書いてしまい、後からどんな題をつけたものか、ウチの仙人に相談したら、こんな題になってしまいました。
私の一番下の妹が酔って玄関先で転び、顔、頭を強く打ち、4時間くらい意識不明のまま寒空の下で倒れてしまいました。幸い、飼っていた犬が吠え出し、ダンナさんが気づいて妹を救急病院へ運び、危ういところを命を取り留めました。
悲惨なのは美意識、自意識の強い彼女の顔が腫れ上がり、何針か縫わなければならないことでした。血液中のアルコール濃度が0.45もありましたから、これはもう立派な急性アルコール中毒で、死んでも不思議のない状態だったと言ってよいでしょう。
身近にこんな事件が起こり、全くお酒を飲まない私の両親、もう一人の妹家族(私と弟はタシナミます)は、「悪いのはお酒で、妹ではない…」と、まるで禁酒法時代に舞い戻るような意見を述べています。
何事にも極端に走る傾向がある世論、それを反映して、票稼ぎのために動く政治家の多いアメリカのことですが、まさか最悪の立法と言われた禁酒法を復活させる気づかいはないと思います。
禁酒法は1921年から1933年まで施行されましたが、その間、全米に違法のバーやお酒を飲ませる所が22万2,225軒あったと、当時の取締官のトップだったアンドリュー・マッキャンベルが言っています。しかし、彼自身、これは確かめた数字で、実際には50万軒はあっただろうと溢しています。
地元の警察や合衆国政府の特別捜査官がバーを開いていた例がたくさんあり、それまで禁酒運動を過激にやっていた宗教団体のエライさんが密造酒に絡んでいた例もたくさんあるくらいです。
この時代、酒類を扱うのは非常に儲かるシゴトで、アル・カポネが台頭したのも禁酒法のおかげです。相当優秀な刑事弁護士だったジョージ・リーマスは、自身、お酒を全く飲まないのに、禁酒法に穴を見つけ、お酒の密売で巨万の富を築き上げます。リーマスは医療用アルコールの販売、輸送が許されていることに目を付け、保健省に手を回して許可を取り、販売網を作り上げたのです。医療用アルコールと密造ウィスキーとはモノが違うなどと面倒なことを言わせないだけ、賄賂を気前よく官憲にばら撒いていたのです。
禁止されているのですから、酒税なんかなく、モグリで製造、輸送、販売、営業している以上、どこにも全く税金を払う必要がなく、アルコールを扱うことは、それはそれは儲かる、濡れ手に粟のシゴトだったのです。
ニューヨーク市だけの統計ですが、禁酒法時代の方がそれ以前に比べ、アルコール中毒患者で収容される患者は3倍以上になっていたと言いますから、お酒は禁止したからと言って、アメリカ人全員がドライ(酒気抜き)にすることはできない相談だったのです。
この時代のことを読んでいて、法の網の目をくぐってお酒を飲んでいる人は、皆が皆、誰も法律を破っている意識がないことに驚かされます。罪悪感など全く持っていないのです。アメリカ人は、気に食わない法律に穴を開けるヨロコビを伝統的に持っているのです。
アメリカ植民地時代にイギリスが掛けた“印紙条例”に反対し、印紙を盛大に燃やした人たちは、アメリカ愛国の士とみなされていますし、有名なボストン・ティーパーティー事件(イギリスが紅茶に掛けた関税に反対し、紅茶を海に捨てた)も、アメリカ独立のきっかけを作った事件として、誰も当事者を無法者扱いにはしません。むしろ建国の英雄、愛国者扱いです。
奴隷廃止運動でも、南部の黒人を逃がすため、アンダーグラウンド(地下鉄網と呼ばれていた)ルートを作り、逃亡の手助けをすることは大変な違法行為でした。人道が法を凌駕した例と言っていいでしょう。もちろん、その時代、黒人が逃げる手助けをするのは、自分自身に危険が及ぶ命がけの行為でしたが、それでもたくさんの人がアンダーグラウンドに関わり、黒人を北の州へ、カナダへと逃避させたのです。
治世者にとって、一番簡単なのは、法律を作ることです。人間性を無視した馬鹿げた法律が政治家や独裁者によって作られてきました。日本の江戸時代に制定された“生類憐れみの令”など、その典型ではないでしょうか。
お酒が諸悪の根源なのではなく、人間性を無視した法律“禁酒法”が、様々な悪徳を生み出したと思います。法律は人間が作るものですし、その法律を施行するのも人間です。人間性を無視したところに法を書くべきではないと思うのです。
というところで、この頃拘っている、安い割にマアマア美味しいティズデイル(TISDALE;カリフォルニアワイン)の赤を一杯飲むことにします。
-…つづく
第592回:アメリカ駐留軍と“思いやり予算”
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