第29回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディ その5
広々とした屋外で存分に馬を走らせ、テキサスのロングホーン牛を追い、バッファローまで登場させるショー『バッファロー・ビルズ・ワイルドウエスト』を始めたのは1883年になってからのことだ。ビルは37歳になっていた。
ネッド・バートラインがバッファロー・ビルの名を広め、ステージショーを立ち上げてから実に13年もの紆余曲折、暗中模索、念入りな準備を行っている。それは今まで存在しなかった全く新しいタイプのショーで、大きな天幕の下で行われていたサーカスの何倍もの空間に西部そのものを持ち込もうという試みだった。
バッファロー・ビルという自分の名前にネームバリューがあるのを承知したうえで、それを最大限に利用してはいるが、他のプロ、興行師、宣伝、音楽家、そして興行地の地元の有力者に一札を入れることも忘れなかった。たとえば、コルネット奏者のウィリアム・スイーニーが率いるカウボーイ楽団に一切を任せ、作曲まで依頼し、逆にウィリアム・スイーニーの才能を引き出している。

バッファロー・ビルズ・ワイルドウエストのポスター
右はバッファロー・ビル (1899年頃)
さてショーの方だが、大酋長のシッテング・ブルを担ぎ出し、騎兵隊との戦闘場面を作り出し、射撃の名手、曲撃ちではアニー・オークレイと彼女の夫であるフランク・バトラーを担ぎ出したり、ポニー・エクスプレスを再現したり、クライマックスには全滅したカスター将軍の第7騎兵隊とシャイアン族の襲撃を再演した。カスターもクレイジーホースも亡くなっていたから、カスターにはビル自身がなり、クライマックスに出演した。
愉快なのは、アメリカ西部の再現だけでなく、民族衣装華やかなトルコ軍、アルゼンチンのガウチョ、アラブの馬賊、モンゴルの騎兵、ジョージアの騎馬民族まで登場させていることだ。
ワイルドウエスト・ショーは、ビルが目論んだより当たりを取った。いくら他に娯楽のない時代だったとはいえ、よくぞあれだけの人が集まるものだと呆れるくらいのものだ。元来モノ好きなアメリカ人は西部に強い憧憬を抱いているからだろうか、ショーは正に前代未聞の大成功を収めたのだった。
ところが、バッファロー・ビルはこの大所帯、メンバーだけでなく、馬や牛まで引き連れてヨーロッパ公演を打って出ているのだ。道具や動物の輸送、そして現地での滞在費用などを考えると、とても赤字にならずに済むとは思えないのだが、大観衆を収容できる簡易観客席をグルリと敷設し、そこへ入る入場料の収益プラス、レストランやスナック、加えて土産物、インディアンのハンドクラフトやガンマンのテンガロンハット、鹿皮の服などなどを売り捌いた。
ディズニーランドを開設した時、誰があんなすべて人工的な公園などに行くものかと思ったものだが、私の予想は全くハズレ、大人気になった。連れ合いが子供の頃、ディズニーランドに行ったことがない子はほとんどいなかったという。それが日本に飛び火し、他のアジアの国にも開設された。唯一の失敗はヨーロッパのパリ郊外に設けられたディズニーランドだという。
バッファロー・ビルのワイルドウエスト・ショーはディズニーランドとは違い、常設ではなく移動式だった。ヨーロッパ公演はまず手始めにロンドン郊外、それからバーミンガム、サフォード、そしてマンスチェスターで当たりを取った。
初回のイギリス公演は5ヵ月だった。初回と書いたのは、ビルは都合8回も渡欧しているからだ。すでにイギリスは定期公演の地になりつつあった。物見高いのは何もアメリカ人だけではないらしい。ヴィクトリア女王、王子だったエドワード7世らローヤルファミリーも観衆の中にいたくらいだ。
そして、翌年のパリ公演、その後にバルセロナ、イタリア、時のオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツを順次訪れている。その時、カイザーウイルヘルム2世や後に国王になるジョージ8世に会っている。イタリアではもちろんローマ時代の遺跡を利用している。その時、ビルは法皇レオ8世にも会ってさえいる。
アメリカの外交官、大統領でもバッファロー・ビルほどヨーロッパの高官、ローヤルファミリー、法皇、国王と直接面談した者はいないのではないか。まさに私設の外交使節団のような活躍ぶりだった。

スコットランド、グラスゴー郊外に建てられたバッファロー・ビルの記念銅像
バッファロー・ビルは優れた騎手ではあったが
この銅像のように、荒馬のロデオの選手ではなかった
鳥瞰図的に歴史上のバッファロー・ビルの生涯を観ると、彼がいかに抜きん出た企画力、実行力を持ち、かつ人脈に恵まれていたかが知れる。彼が無私の精神を持っていたというのではないが、利益を独占することがなかった。
確かに、彼はネブラスカに4,000エーカー(約16平方キロメートルになろうか)の大牧場を購入している。だが、それはオフシーズンの冬場にショーで使う馬や牛、バッファローを飼うのが目的で、寝室が16もある大邸宅は主にショーに出演するスタッフにオフシーズンをゆっくり過ごしてもらい、次のシーズンのショーの企画を練るため、興行師、演出家、ショーマン、各都市の市場調査員などが長期滞在するためのものだった。
俗な根性でビルが一体どのくらいのお金を儲けたのか知りたいところだが、推定ばかりで具体的な数字を知ることができなかった。彼のショーには莫大な経費がかかったことだろう。単純に切符の売り上げから経費を引いて、残りは儲け…とはできないのだ。1887年のイギリス公演だけを取ってみると、総計300回の公演をうち、250万枚の切符を売り捌いている。
バッファロー・ビルが彼本来の粘り強さを見せた大事件が起こった。1901年10月29日のことだ。
ワイルドウエスト・ショーは物資、設備、動物たち、スタッフの移動に列車を使っていた。ノースカロライナ州のシャーロット公演を終え、すべてを積み込んだ列車で次の公演地であるヴァージニア州のダンヴィルへ向かった。ところが、南北戦争の激戦地として有名なレキシントンに差し掛かった時、他の貨物列車と衝突したのだ。
ワイルドウエスト・ショーの列車は長大で、通常30両から50両編成の列車を、三つ別々のユニットを編成して機関車で引いていた。貨物列車が衝突したのは第二番目の編成列車で、当然後続の第三列車も追突した。
この事故で110頭の馬、ビルの愛馬、オールドパップ、オールドイーグルも死んだ。もしくは後で殺さなければならなかった。3名のインディアンも亡くなった。負傷者数は数知れず、その中にショーのメインキャラクターであるアニー・オークレイもおり、再起不能だと診断されるほどの重傷を負っている。
ワイルドウエスト・ショーで重要な役割を果たしていたすべての馬を失い、ショーを続行することはできない、不可能だと誰しもが思った。ショーは悲劇的結末を迎え、華やかだったビルの生涯もこれで終わったと関係者、興行師らは思ったことだろう。
ここからビルの底力が発揮された。いわば彼の信用で再起のための援助、支援、それに優秀な馬を貸す人たちが現れ、見事にワイルドウエスト・ショーを再興させたのだ。ビルのために一肌脱ぐ人が大勢いたのだ。それは、それまでビルが関係者たちと良い関係を保ってきたからだと言える。
-…つづく
第30回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディの私生活と晩年
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