第20回:西部奇談 ケイト・ベンダー その5
アレックス・ヨーク大佐の弟ウイリアム・ヨーク医師の死体はすぐに見つかった。他の11体の死体と同じように、喉を一文字に切られ、頭蓋骨が陥没していた。
ベンダー家の連続大量殺人のニュースは、文字通り全米に広がった。南北戦争が終わり、人々の目は西部開拓に向けられている最中のことだ。人間は本来ゴッシップ好きな動物なのだろう、それが猟奇的な大量殺人で、しかも兄と妹が性的関係を持っていたとなると、圧倒的に多かった清教徒には、とてつもないショッキングな事件だったに違いない。ダイム小説(10セントの絵入り雑誌)に始まり、クオリティ紙から三流地方紙まで、こぞって“真相”を書きまくった。
ベンダー一家の足取りはすぐに掴めた。彼らの馬車、二頭の馬、それに子犬が、彼の家から10マイルと離れていないサイヤー(カンサス州)で見つかり、サイヤー駅の駅員が数日前に彼らにフンボルト(カンサス州)までの切符を売ったことを覚えていたのだ。追跡、逮捕は容易だと思われた。
ベンダー家の殺戮事件はカンサス州だけでなく全米に隈なく知れ渡っていたし、情報もすぐに集まるだろう、彼ら4人組はとりわけ目立つ容貌を持っていたので、彼らが拘束されるのは時間の問題だと誰しも思っていた。
ところが、悪魔が彼らに微笑んだのか、運を授けたのか、ベンダー一家の4人組は、地上から消え失せたのだった。

ベンダー家の面々の写真はおそらく存在しない。無数にある出版物にも写真はない。
これは1913年、事件後40年経ってから出版された本『カンサスのベンダー家』
(The Benders in Kansas)の挿絵で、おそらく事件後に出回った“犯罪人手配ポスター”
からの転載だと思われるがどのくらい当人に似ているかは分からない。右端がケイト。
カンサス州だけでなくミズーリー、アイオワ、はてまたシカゴ、セントルイスまで人相書きが回され、刑事たちは彼らの足跡を辿った。地元のシェリフ、鉄道員らも積極的に協力した。西部開拓時代最大のマンハントが行われたのだ。
当時の電信や交通事情を考えると、彼らの足取りは異常なほど素早く辿ることができた。それほどベンダー家の大量殺戮は大事件であり、近隣の町や郡のシェリフ、州の警察は躍起になっていたのだろう。
だが今になってシェリフ、刑事たちの追跡方法を鳥瞰図的に見ると、一つの統制が取れた追跡とはかけ離れた、個人プレーばかりで、その時代の通信状態では、情報を一箇所に集め、効果的に犯人の足取りを辿ることが不可能だったようにも見える。
それどころか、賞金稼ぎや地方のシェリフ達は自分が掴んだ情報を他に漏らさず、独り占めしようとしていた気配さえ見える。これがもしFBI創設のモデルになった“ピンカートン探偵社”のように情報を一箇所に集め、専門の探偵、追跡者を送り込んだなら、一挙に逮捕されたことだろう。私立の営利事業会社であったピンカートンは、ベンダー一家の追跡に乗り出していない。
殺人容疑のような大罪で逃亡する人間のワンパターンは、国境を越えメキシコに逃れるか、大都会の人の群れに紛れるか、この二通りだ。ジョン・ジュニアとケイトは定石通り南下し、テキサスからニューメキシコへと逃亡したようだった。明らかにメキシコを目指していた。
かなり後になってからだが、ある刑事はジョン・ジュニアが国境近くでてんかん性の卒中になり、ケイトは兄を置き去りにし、ジョン・ジュニアはそこで死んだと報告している。ケイトはまんまとメキシコに逃げおおせたのだろうか。
父親のジョンとエルヴィラは、フンボルトで列車を降りずにそのままカンサスシティーに向かった。そこで列車を乗り換え、セントルイスまでの切符を購入している。当時としても、流れ者の多かったセントルイスは大都会だった。紛れ込むには格好の街だった。
1870年当時としては破格の2,000ドルの賞金が彼らの首に架けられた。それもすぐに3,000ドルに引き上げられた。現在の価値にすると、およそ10万ドル、1,600万円相当になろうか。大変な額の賞金だ。

2,000ドルの賞金ポスター
カンサス州の知事トマス・A・オズボーンの名前が大きく書かれている。
どんなことであっても、自分の名前を売ることを忘れない政治家根性が覗ける。
事件が表面化した1873年5月17日にいち早く賞金ポスターが配られた。
その後3,000ドルに増額されたが、この賞金を得た者どころか、申し出た者さえいなかった。
一体、いくつの調査団、探偵グループ、追跡のプロたちがベンダーを追ったことだろう。そのうちの一つは、ベンダー一家4人を追い詰め、銃撃戦になりケイトだけ逃したが他の3人は射殺したというもの、他の追跡団は4人とも捕まえリンチにかけ、屍体はヴェルジグリス川に投げ込んだ、というハナシが伝わってはいるが、高額な賞金授与を申告していない。彼ら追跡団は当然賞金目当てだったから、もしこんな話が本当なら、重要な証拠となる死体を川に投げ捨てたり、そのままプレーリーに放っておくようなことはすまい。
少し信憑性が高いのは、1884年、事件後12年経ってからだが、ジョン・フレキンジャーという男がミシガン湖で自殺し、彼の身体の特徴、生前強いドイツ語訛りの英語を操っていたことなど、父親ジョンと合致するという報告がある。
また、モンタナ州で一人の男がサーモン(アイダホ州)での殺人容疑で逮捕された。その男の殺し方というのが、後頭部をハンマーのようなもので殴り殺すベンダーのやり方と同じ手口だったところから、殺人犯はジョン・ベンダーに違いないと演繹された。但し、喉をナイフで掻き切ってはいない。
ベンダー家の地元のチェリーヴィルからシェリフが呼び寄せられたが、殺人犯は逃亡を図り、その際、脚に銃弾で重傷を負い、出血多量で死んでしまっていた。父親ジョンの人相を知るシェリフが着いた時にはすでに腐敗が激しく、とても人相を判別できる状態ではなかった。それにもかかわらず、サーモンの町の酒場サローンでは、この殺人犯の頭蓋骨を“Pa Bender”(ベンダーの親父)として禁酒法で酒場を閉鎖しなければならなくなった1929年まで展示されていた。
-…つづく
第21回:西部奇談 ケイト・ベンダー その6
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