第26回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディ その2
ここでは彼の自伝『バッファロー・ビル、自身が語る』(Buffalo Bill’Own Story)に沿って話を進めることにする。西部の話には、ホラ話がつきものだとしても…。
ポニー・エックスプレスはミズーリー州のセント・ジョゼフからカリフォルニアのサクラメントまで手紙、電報を馬を走らせ、運んでいた飛脚で、バファロー・ビルが馬をとばしていた時代、1オンス(28.35グラム)5ドルの郵送料を取っていた。
当時の5ドルは大金だった。ちなみに通常の郵便料金は2セントだった。5ドルは現在の貨幣価値に換算すると170ドルから200ドルくらいになろうか。1オンス単位の料金だから、超軽量の紙に細かい文字で、しかも短縮した文章で書く必要があった。
この大平原を横切り、ロッキー山脈を越え、カリフォルニアに至る速達便は国営、官営でなく、純粋な営利事業だったにしろ、政府関係の緊急通達の伝令を見込んでのことだった。騎兵隊の駐屯地、砦を結ぶ伝令はあったが、定期的に走らせている類いのものではなく、必要に応じ馬をとばしていた。従って、ポニー・エックスプレスの顧客はお役所関係が多く、銀行、大企業、そして軍令が主で、個人的な手紙は非常に稀であった。

ポニー・エックスプレスのルート地図

起点のセントジョセフ(ミズーリー州)

終点のサクラメント(カリフォルニア)
ポニー・エックスプレスのルートは決まっていて、途中に馬を交換する駅場が設けられていた。騎手は平均1時間に15マイル程度(24、5キロほど)のスピードで馬を走らせていた。これはギャロップの駆け足で、競馬や西部劇で観るような猛烈な追い込み疾走ではない。
騎手の腕は、いかに馬を潰さずにスムーズに中継点、馬の交換所に着き、次の馬に乗り換えるかにあった。乗り換えた馬の特徴を素早く察知し、その馬に合った乗り方をしなければならなかった。
1860年当時のカリフォルニアには38万人の居住者がいたとみられ、1849年のゴールドラッシュ以降、大きく開け、それからも壮大な開発が見込まれていた。
バッファロー・ビルの自伝では、全行程の1,838マイルを一人で乗り切ったようなことを書いているが、不可能ではなかっただろうが、許容範囲のホラだろう。
ポニー・エックスプレスはミズーリー州のセントジョセフとカリフォルニアのサクラメントを10日間で結ぶのを売りにしていた。だが、実際には何の支障もなく目的地に到達できることの方が珍しく、気象条件、馬の疲弊、騎手の体調、インディアンの襲撃などなど、十分に予期されてる事故が頻発し、かえって予定通りに着くことの方が珍しかったようだ。
実際、パイユート・インディアン(Paiute)による襲撃など、馬交換ステーションを襲い、馬や牛、食料を窃盗する事件が発生している。それが7ヵ所に及び、16人の駐屯者が殺さる事件も起きている。
バッファロー・ビルが一人で通して全行程の騎手を勤めたとすると、1日平均180マイルの距離を馬の背で過ごしたことになり、それは連日13~15時間の騎乗になる。その間、水を口に含ませ、ビーフジャーキーをかじり、かつ用を足さなければならない。
サドルにまたがったままで仮眠できるものだそうだが、それでも10日以上ベッドに横にならずに通せないだろう。馬の背は座り心地の良いものではない。下から突き上げるようにドンドン、ズシンズシンと尻を叩く。
彼が描写する平原、山岳は生き生きとしており、実際にその地を踏んだことを思わせる。自伝が描かれたのは晩年だから、彼が従軍し、斥候ガイドを勤めた時の経験がダブっているのかもしれない。
私もほんの一部だがポニー・エックスプレスの道程を走ったことがある。もちろん馬でではなく、ピックアップトラックを走らせてのことだが…。現在のUSハイウエイ36号線がほぼポニー・エックスプレスのルートを辿っており、別名“ポニー・エックスプレス・ハイウエイ”と呼ばれているが、それをピックアップトラックを転がしただけだ。その行程にポニー・エックスプレスの記念碑、バッファロー・ビルの石碑、レリーフが多いのは呆れるほどだ。

出発点のミズーリー州、セントジョセフには
立派な銅像と小さいながら充実した博物館がある
そこを訪れて初めて気づいたことだが、西部開拓史を飾る開拓のシンボルとも言えるポニー・エックスプレスは1860年4月から1861年10月までのたった18ヵ月しか運営していなかったのだ。早く言えば、経営が成り立たず、破産したのだ。
ポニー・エックスプレスは西部開拓を語る上で欠かせない存在になっているのだが、18ヵ月という短い命を保っていただけなのに呆れ果てたことだ。
この速達便はニューヨーク州のワシントンからのメッセージを電報でミズーリー州のセントジョセフまで送信し、それをまだ電信のなかった、中部、西部へ馬で運ぶという画期的な試みではあった。
それはとてつもなく大きな規模の企画で、カリフォルニア州のサクラメントまでの1,800マイル以上の行程に184ヵ所に馬を交換する駅を置き、そこに常駐する馬方、カウボーイとその家族らは総計6,000人を越え、主な食料になる牛だけで7万5,000頭確保していたし、その上80名の騎手を抱えていた。
西部始まって以来の大規模なオペレーションであり、大企画であったことは確かだ。勇壮な騎手、ライダーは50~70マイルを馬で走らせ、そこで次のライダーにバトンタッチした。最長記録として120マイルを8時間40分、馬の背で過ごした英国生まれのロバート・ハスラムという男が記録保持者だ。
そして、誰がセントジョゼフからの一番最初のライダーだったか、ジョニー・フライかビリー・リチャードソンか、論議はやかましいが、結論は出ていない。そんなことさえはっきりとした記録に残っていない上、80人もいたライダーがどの区間を走ったかはまるで分かっていない。
-…つづく
第27回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディ その3
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