第18回:西部奇談 ケイト・ベンダー その3
ベンダーの小屋、店の捜査が開始されてから、残された記録、談話、情報の量は格段に増え、ゴシップも一挙に多くなる。それをかいつまんで述べると、ベンダー家の者は、近隣の住民がハーモニー・グローブの校舎で決定した、この界隈のすべての家を捜査する決議を知り、非常に限られた必需品だけを携え、あわてて夜逃げしたのは明らかだった。家畜まで残されていたし、店の商品もあらかたそのままだった。取る物も取り敢えずアタフタと夜逃げしたのだ。
捜査隊が家に踏み込んだ時、ムッとするような動物の死骸の匂いが立ち込めており、床板に血糊が乾いた跡が歴然とあった。狭い小屋の屋内は探すのは容易だった。カーテンで仕切られたベンダー一家4人が寝ていたベッドが二つ置かれていた一角のベッドの下の床板がいかにもはめ込まれたようであり、地下に通じることが、すぐに発見された。
床板を剥ぐと死臭はますます強くなり、死体が横たわっているに違いないと誰しも予想した。しかし、地下には血糊の塊が散乱してはいたが屍体はなかった。地下室は1.8メートルほどの深さで、2メートル四方の広さしかなく、一度、ケイトが催眠をかけるように無抵抗にした被害者の喉を一文字に掻っ切り、後頭部をカナ槌で強打しトドメをさした遺体を一時的に保存するために使われていたことを示していた。
ということは、夜になってから、どこかに運び、埋めるか捨てた、それは何処だということになった。
ベンダー家の庭、リンゴの果樹園に奇妙な盛り土があることに捜査員たちはすぐに気がついた。家のすぐ裏手だ。
浅い穴に埋められた死体が続々と掘り起こされたのだ。中には穴というより、地面にそのまま投げ捨てられたように、土をうっすらとかぶせただけの遺体もあった。

1873年5月9日にインディペンダンスの写真屋、ジュリウス・プライツが撮った貴重な写真
ベンダー家の殺戮事件は異常な速さで全米に広がり、カンサスシティーはもとよりニューヨークやシカゴからリポーターがやってくるはの大騒ぎになり、およそ3,000人の野次馬がベンダー家の小屋を訪れ、記念品として小屋の壁板、窓枠、床板から土台の石まで持ち去り、壊滅した。
背景に写っている三角屋根がベンダーの小屋。これは非常に貴重な一枚で、というのは数ヵ月経たずしてこの小屋は跡形もなくなったからだ。この時点で8人の遺体が掘り起こされた。その後、家の周囲を隈なく捜索して合計11体見つかった。死体とは別にいくつもの手足だけが見つかったが、それらはどの死体ともマッチせず、それどころか手足の切り取られた遺体は見つからなかった。
行方不明者で親類縁者がおらず、名前が割り出せない死体もあった。ベンダーファミリーに殺されたのは20名を下らないだろうという見方が一般的だ。ベンダー家の捜索で見つかったのは11体だが、それが1872年から73年の4月までの短期間に殺害されている。その他にベンダーの地所の外で掘り起こされた3体が見つかっている。死因は喉を一文字に切られ、後頭部陥没とベンダー家の庭に埋められた死体と同じだ。
何のために、どうしてそんな大量殺戮に及んだのか、いくらケイトが神がかり的な神託を受け、殺人に走ったにしろ、それが世間一般の感覚で測れば重罪であることは、十分承知していたに違いない。地元民の総会で、この地域全部の家を捜索することを嗅ぎつけた4人のベンダーファミリーは取る物も取り敢えず夜逃げしているのだから、自分たちが社会的に最悪の犯罪を犯したことを知っていたのだ。いくらケイトが精神を純化するために、天が人を殺すことを命じたと反論しても、世間で全く通用しないこと、捕まれば、絞首刑かその前にリンチにかけられることが分かっていたのだ。
血の痕跡が付いた金槌、片手で使う小型のツルハシ、大型のハンマーなどなどが隠そうともせず投げ捨てるように散らかっていた。検死官と言っても地元の医者だが、それらの金槌が死体の頭蓋骨陥没跡とピタリと一致すると報告書を書いている。だが、その検死レポートは残っておらず、それを読んだという記者らの言葉を借りるだけなのだが…。
もっとも、その時代には指紋照合さえなく、犯人捜索はもっぱら人相描きと証言に頼っていた。ベンダー家の殺戮のように加害者が初めからハッキリしているケースでは、ただ加害者、犯人の逃走経路を辿り、捕まえるだけだった。
-…つづく
第19回:西部奇談 ケイト・ベンダー その4
|