第27回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディ その3
さて、バッファロー・ビルだが、いくら彼が抜きん出たライダーであるにしろ、14歳の少年をポニー・エックスプレスは雇わないだろう。だが、ワイオミングの馬交換所のランチハンド(馬、牛の世話をする牧童)をしていた時、予定していたライダーが急病になり、ピンチヒッターとしてレッド・ビュート交換所からロッキー・リッジ交換所までライダーを務めたことがあった。それを全行程、記録的なスピードで走ったという辺り、どこかの国の知事並みのハッタリだ。
大平原の横断を終え、そこから山越えが始まる地点に、インディペンデンス・ロックがそびえている。そびえていると書いてしまったが、平原にニュッと突き出ている、どんぶりを伏せたような低く丸い岩山で、高さは138フィートしかない。
岩に誰が始めたのだろうか、一応一番古い名前は1824年のM.K. Hughということになっている。この岩山に開拓者、パイオニアたちの名前が5,000余りも刻まれている。
ここまで来た、あともう一息でカリフォルニア、オレゴンに、モルモン教徒たちならソルトレイクシティーに到達できるという希望に震え自分の名前を刻んだのだろうか。実際には、そこからの峠越えの方が、難所なのだが…。
このインディペンデンス・ロックはワイミング州の州立歴史記念物になっている。

インディペンデンス・ロック州立公園
ポニー・エックスプレスのルートもこのインディペンデンス・ロックの脇を通り、二つの岩が城門のようにそびえるデヴィルス・ゲイトをくぐり、ロッキー山脈の北端を回り、ウインド・リヴァー・レンジ連山が北から迫っている南端、サウス・パスと呼ばれている標高2,300メートルの峠越えが待っている。
ここでモルモン教徒の移民団が早く襲ってきた冬将軍に捕まり、立ち往生し、悲劇の峠として有名になったところだ。

デヴィルス・ゲイト、いかにも城門のようにここだけ開いている
ポニー・エックスプレスが短命に終わったのは、このオペレーション自体が大掛かり過ぎて、経費が膨大にかかり過ぎたことと、西部へのトレイル、オレゴン・トレイル、カリフォルニア・トレイル、モルモン・トレイル、サンタフェ・トレイルなどの整備が進み、騎兵隊がそれらのルートの安全を確保し始め、ウエルファーゴの駅馬車が定期運行を開始し、郵便物を運び始めたことなどの理由による。
ジョン・フォード監督、ジョン・ウエイン主演の名作『駅馬車』の時代も、やがて鉄道に追われ、終焉を迎えるのだが。ポニー・エックスプレスは西部をより身近にし、雄大なロマンを懐かせたが、実際の功績は極めて少なかったと言わねばならない。
たとえポニー・エックスプレスは総計35万通の手紙を運んだにしろ、ルイスとクラークの大陸横断に比べることなどとてもできない。だが、ポニー・エックスプレスのライダーだったというだけで、西部だけでなくアメリカ中どこへ行っても、西部開拓史を飾る人物とみなされ、尊敬を集めたものだった。
バッファロー・ビルも、実際にはピンチヒッターとして一区間だけライダーを務めたのが実情のようだが、それを吹聴し、最大限に利用したのだ。
アメリカの軍隊でプライヴェート(Private)という格付けがある。私兵ではなく、軍隊の組織内にある一番下のランクで、一兵卒とでも訳せば当たっているだろうか。ビルはそのプライヴェート、一兵卒として17歳の時、カンサスH7騎兵隊に入隊し、2年余りそこで過ごし、19歳で除隊している。この辺りから彼の経歴の記録が残っている。
その後、カンサス州のど真ん中にあたる、エルスワースと当時のフォート・フレチャー(現在のヘイズ)間の騎兵隊付属の斥候を務めている。
この区間は緩やかにうねるカンサス州の大平原で、大地を削るようにクリークが走っているにせよ、磁石があれば、斥候、道案内なんか必要がない地域のように思われる。しかし、東部の食い詰め者が多かった当時の騎兵隊、士官学校は出たけれど、西部の実情に暗かった騎兵隊長は斥候を必要としていたのだろう。
騎兵隊には満足に馬の世話どころか、満足に馬に乗れない新米隊員が結構いたから、生粋の西部男、しかもポニー・エックスプレスのライダーだったという触れ込みのバッファロー・ビルは十分に存在価値があったのだろう。
-…つづく
第28回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディ その4
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