阪堺電軌上町線の終着駅は住吉公園だ。住吉公園は1873(明治6)年に開設された、大阪でもっとも古い公園として知られている。人工的に自然を整備して人々が憩う場所を作ろう、という発想は文明開化以後のことだ。もっとも、それ以前は神社仏閣が広い庭園を持ち、そこが憩いの場所になっていた。こどもたちにとって遊ぶ場所はどこにでもあった。公園とは都市に特有の施設なのだ。住吉公園は神社の境内に作られた。これは都市の余暇利用施設が境内から公園へと移行する過渡期の証明だと言える。日本の公園の発祥を研究するためにも良い素材かもしれない。
住吉公園駅は南海本線の住吉大社駅と隣接している。高架駅なのでホームに上がると周辺が見渡せる。住吉公園は色あせ始めた緑に覆われていた。大阪有数の桜の名所というから、春にもう一度訪れたい。森の向こうにはビル群が迫っている。都市化が進んで初めて、この地に公園を確保した意味が大きくなってくる。
住吉公園を望む。
振り返ると住吉大社だ。ここで奇妙な位置関係に気付く。この駅は住吉大社と住吉公園の間にあるけれど、駅と駅名の対象との位置が逆だ。南海本線の住吉大社駅は住吉公園側にあり、阪堺電軌の住吉公園は住吉大社側にある。歴史をひもとくと、明治18年に南海(当時は阪堺鉄道)の駅ができた当時は住吉駅だった。その後、観光客誘致のためか住吉公園駅に改名されている。1913(大正2)年に上町線の住吉公園駅ができ、ふたつの駅は同じ名前になっていた。
ところが66年後、南海側が高架工事に着手中の1979(昭和54)年に住吉大社駅に改称したため、位置関係が逆になった。その理由はインターネットで検索しても見つからない。同じ場所にあるから同じ駅名にしたほうが便利だと思うけれど、住吉大社に敬意を表したのだろうか。住吉公園は住吉大社の参道周辺を整備してできた公園で、南海本線は参道を分断する形で敷設された。高架化で参道が復活したことも関係しているだろうか。
住吉大社から南海本線に乗り、大阪中心部へふた駅戻ると、パチンコファンがニヤリとしそうな名前の岸里玉出駅。ここから大阪環状線の内側の汐見橋へ南海の支線が出ている。通称"汐見橋支線"だが、支線扱いとは失礼な話で、元をただせば大阪と高野山を結ぶ南海高野線である。南海本線と高野線を高架区間として整備するときに、南海のターミナルを南海本線の難波駅に集約させたため、高野線の電車もすべて南海本線に乗り入れて難波を起点とした。汐見橋から岸里玉出までの路線は主要系統から分離され、2両編成の電車が往復している。その経緯と現在の状態は東武亀戸線に似ている。運行間隔は20分単位で、車掌のいないワンマン運転だ。
電車は2両編成でワンマン運転。
たった2両の電車、しかも車内はガラガラだ。大阪環状線の内側に行く電車とは思えない。発車を待っている間、窓の外を南海本線や高野線の電車が頻繁に通り過ぎる。こちらは対照的にひっそりしている。向こうとこちらに見えない壁があるようで、こちらは別世界だ。この電車自体も混雑した路線での使用を想定していない。ひとつの車両に乗降口が片側につきふたつしかない。混雑する路線なら扉は4箇所ある電車を使わないと乗降に時間がかかる。混雑路線では扉が5つ、6つという、扉だらけの車両もある。
扉がふたつしかない、ということは、さほど乗客も多くないということだ。しかし、そのおかげで見晴らしはいい。ロングシートの向こう側は窓がズラリと並び、展望台のようなパノラマを楽しめる。ただし、高架区間ならではの見晴らしは長くは続かない。岸里玉出を出た電車はすぐに勾配を降り、街に埋もれてしまう。緑は少なく工場や学校などが目立つ程度。コンクリートの色ばかりが広がる寂しい光景で、華やかな建物は少なかった。寂しさが募り始めた頃に老人ホームが見えた。もう、切なくてたまらない。
連続した窓は見晴らしがいい。
岸里玉出を出てから数分後、高速道路の下の木津川駅を出たあたりから終点までは寂しさの頂点に達する。高速道路と併走し、日陰を走り続けるのだ。人口が密集する大都会にも人通りの少ない道はある。汐見橋支線はまさに鉄道王国大阪の裏通りである。
うなだれるように下を向きながら汐見橋駅を降りる。閑散とした寂しい駅だ。しかし行き止まり式の古いホームと、その先に構えた吹き抜けの駅舎は、高野山へ向かうメインルートだった頃の名残である。都会にひっそりと残された、小さいけれど由緒ある駅の佇まい。改札を出て、高い天井をぐるりと見渡せば、改札口の真上に古い観光案内図が掲げられている。図には「昭和30年代のもので、現在の沿線案内は係員にお尋ねください」と添えられている。それは博物館に置けば注目を浴びそうな代物だった。
汐見橋駅は小さいが重厚な雰囲気。
南海電鉄はこの路線をまるごと昭和の遺跡にするつもりなのだろうか。いや、調べてみるとそうでもなさそうだ。新大阪から貨物線を走り、なにわ筋の下に地下鉄を建設してJR難波駅と汐見橋を結ぶ路線の構想がある。それは通称『なにわ筋線』と呼ばれていて、汐見橋支線と直通すると言う。そのころになれば汐見橋駅は地下駅となり、汐見橋線に賑わいが戻ってくるはずだ。
そのとき、現在の汐見橋駅の駅舎はどうなるのだろう。都会に似合いの駅に建て替わるのだろうか。もしそうだとしても、現在の駅舎は昭和の懐かしいものを集めた博物館として残してほしいな、と思った。寂しいと言ったり残せと言ったり、自分でもワガママだなとは思いながら、私は地下鉄の駅へ向かって歩き始めた。
-…つづく