第379回:三ツ矢サイダーと城とベッドタウン - 能勢電鉄 1 -
川西能勢口から能勢電鉄方面の電車は、妙見口行きと日生中央行きが交互に出発する。本線は妙見口方面だ。日生中央は本線の山下駅から分岐して、たったひと駅である。どちらも乗るつもりだから、先に出発する方に乗る。次の発車は08時03分の日生中央行きであった。電車は阪急の中古。車体はマルーン色で、客室も阪急のまま。
ただし、車体側面と先頭車の前面窓に能勢電鉄のトレードマークがある。ヨガをやっている人のように見えるけれど、長い線が本線を示し、短い線が支線を表しているそうだ。この線は菱形からはみ出して、枠にとらわれない若さを表すという。そうなると、全体的に「のびのびと体操をする人」というイメージも外れてはいない。

川西能勢口からの高架区間
通勤時間帯の下り電車はガラガラで、私は先頭車の進行方向右側のロングシートに座った。ここからだと、側面の連続窓のパノラマも見えるし、前を向けば前方の展望も楽しめる。ロングシート車に乗った時のベストポジションである。川西能勢口駅は高架だから、能勢電鉄もしばらくは高架を走る。たちまち地上に降りてしまうけど、右の車窓に大きな斜張橋が見えた。阪神高速11号線の新猪名川大橋で、コンクリート製の斜張橋としては国内最大。愛称はビッグハーブだという。ライトアップが美しいそうだ。この橋の下の猪名川には龍にまつわる伝説が多いという。ヤマタノオロチ伝説がごとく、龍は暴れ川の比喩として語り継がれるようだから、猪名川もまた、水の恵みと災害の両方をもたらしたのだろう。
能勢電鉄は猪名川とその支流に沿うように作られた鉄道である。設立は1908年に設立された。能勢妙見山への参拝客輸送を見込んでいたという。この時代は参詣鉄道が全国各地に立ち上がっていた。そんな参詣鉄道の出自を聞くたびに、日本人はそんなに信心深かったかと不思議に思う。私などは、旅先で立ち寄る以外は初詣くらいしか行かない。昔はお参りもレジャーだったというけれど、何度も、しかも電車に乗ってまで信仰に出かけるだろうか。本心は沿線開発だったり貨物輸送だったりするけれど、それを言ってしまうと川船の水夫に反発されるし、御上も儲け主義を快く思わない。だから神や仏を引き合いに出したのではないか。

新猪名川大橋 ビッグハーブ
能勢電鉄の目論見の本心はわからないけれど、能勢電鉄は創業時からずっと採算が厳しかったようだ。1908年に会社設立。5年後に一の鳥居駅まで開業。しかしその先の延伸が進まなかった。一の鳥居なんて、いかにも妙見山に近そうな名前だ。しかし、どこの神社仏閣も一の鳥居など道しるべ程度の存在で、本山はもっと先である。混迷続く能勢電鉄は、9年経って現在の阪急電鉄に増資を引き受けてもらうと、さっそく翌年に妙見口まで全通した。能勢電鉄にとっては阪急宝塚線が開通したから、そこから妙見山への鉄道事業を立案できたわけだし、阪急電鉄にとっては宝塚線の集客にもなる。
これ以降、現在も能勢電鉄は阪急電鉄の子会社である。戦時買収で阪急に吸収されるということはなく、会社として独立していた。そこには「阪急本体に組み入れられるより、独立させたほうがいい」という判断があったかもしれない。前向きに考えれば、別会社にすると乗り継ぎ時にもういちど初乗り運賃を取れる。後ろ向きに考えると、赤字が続けば会社ごと精算できる。いずれにしても能勢電鉄の経営は厳しいままだった。

三ツ矢サイダーのふるさと平野駅
そんな能勢電鉄を支えた収入源は貨物輸送だった。大荷主は三ツ矢サイダーだという。私たちが子供の頃から親しんだ飲み物が、能勢電鉄で運ばれていたとは驚きである。三ツ矢サイダーは川西で採れる平野鉱泉水が起源だそうで、三ツ矢フーズとして営業していた。アサヒビールのノンアルコール飲料部門と提携した後、現在はアサヒ飲料という社名になっている。現在もアサヒ飲料の沿革は三ツ矢印の平野鉱泉水から始まっている。

奥のほうに三ツ矢資料館がある?
そんなに能勢電鉄と関わりが深いなら、駅の自販機も三ツ矢サイダーが多いかというとそうでもなさそうである。現在は平野に工場はなく、三ツ矢資料館があるそうだが閉鎖中とのこと。その場所は平野駅の先の線路脇だったらしい。取水塔の建屋が残っているそうだけど、平野駅に車両基地があったので振り返ってみてしまい、前方を向いた時には葉が茂っていたせいか見つけられなかった。平野までの車窓は住宅地だったけれど、平野から先は急に緑が多くなって、その自然の景色に圧倒された。

住宅地と新緑が交代で現れる
一の鳥居駅が近づいた。開業時の終着駅は少し手前らしいけど痕跡はわからない。新駅のホームは左へカーブした先にあり、そのホームの向こうにお城が見える。どんな由緒があるかと思ったら、これは大学の付属施設で、お城に似せて建てたようだ。大阪青山歴史文学博物館といって、後醍醐天皇の直筆の手紙や藤原為家写本による土佐日記などがあるという。すごいと思うけれど、正直なところ興味がない。むしろ偽の城に入れるなと思う。千利休の直筆もあるというから「乱世に翻弄された者たち」という皮肉かもしれない。

お城は大阪青山歴史文学博物館
一の鳥居の次は畦野駅。ここは特急『日生エクスプレス』が停車するようで、ホームに「これより先には日生エクスプレス8両編成車が止まります」という看板があった。日生エクスプレスは朝は上りだけ、夕方は下りだけ。停車駅は川西能勢口・平野・畦野・山下・日生中央だ。川西能勢口から平野までは5つの駅を通過して、まさしく特急運転である。しかしその後はなぜか一の鳥居駅だけ通過する。かつては終着駅だったというのに冷遇されている。もっとも、一の鳥居駅よりも畦野のほうが計画的に宅地開発されているようにみえる。
これらの宅地開発が能勢電鉄の起死回生のきっかけだった。昭和の好景気によって、大阪都市圏が拡大し、能勢電鉄沿線もベッドタウン開発地として注目された。相変わらず経営は厳しいようだけど、平日は通勤通学輸送、休日は妙見山への観光輸送がある。能勢電鉄は大手私鉄のような経営資源を揃えている。宅地開発が進むほど車窓は平凡になりがちだけど、能勢電鉄沿線は緑が多い。線路と宅地の間に適度な距離があり、そこに自然が残されているようだ。
前方に山下駅が見えた。高架線の平面分岐で、支線の日生中央方面が直進になっている。支線優先の配線で、日生ニュータウンに対する能勢電鉄の力の入れ様がわかる。上りホームに日生エクスプレスが現れた。阪急電鉄の8000系、8両編成が満員であった。

山下駅、日生エクスプレスが現れた
-…つづく
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