第355回:29年後の再訪 -函館本線砂原支線1-
函館本線は函館から小樽、札幌を経由して旭川に至る路線だ。延長は420kmを超える。さすがにこの長さを直通する旅客列車はない。函館と札幌を結ぶ特急列車はすべて室蘭本線を経由するし、旭川までは行かない。各駅停車も区間運転ばかりで、とくに長万部-小樽間は閑散区間である。国鉄時代末期までは函館起点主義で、函館から道内各地へ急行や特急が走っていた。しかし後年、千歳空港駅や青函トンネルの開業を機に、札幌中心主義に変わっている。
仕事を終えたED79が佇む。
そんな函館本線の歴史を物語る場所がある。函館駅寄り、大沼国定公園付近だ。この辺りは線路がひょうたんを描くように分岐と合流を繰り返す。メインルートはどちらも西側の線路だ。七飯駅と大沼駅の東側は藤城線と呼ばれ、途中駅がないため下りの特急列車と貨物列車しか走らない。大沼駅と東森駅の東側は砂原線または海線と呼ばれる。途中駅があるため一部の普通列車が走るほか、上りの寝台特急「トワイライトエクスプレス」や夜行急行「はまなす」や貨物列車が走る。
オハ50の向こうにあるDCはなに?
私はこの付近を何度か特急で往復したから、七飯-大沼間は両方乗っている。しかし大沼駅-東森駅はメインルート、通称山線しか通らなかった。砂原線は一部区間に乗ったものの、大半は乗り残したままだ。上りの『トワイライトエクスプレス』や『はまなす』に乗れば通るけれど、どちらも砂原線の通過は夜。できれば明るいうちに乗りたかった。竜飛海底駅の見学を決めたきっかけのひとつが、青森・函館フリーきっぷを使えば、砂原線も乗車できるからだった。
キハ40、堂々の4両編成。
早朝05時30分にホテルをチェックアウトして、函館駅に向かう。傘が要らない程度の小雨。暑くはないけれど、涼しくもない。冷房を切ったばかりの夏の部屋という気候である。函館駅6番線に赤い電気機関車が停まっていた。寝台特急カシオペアのヘッドマークが付いている。上野発札幌行きの『カシオペア』は函館駅着05時01分だから、ひと仕事が終わって休憩中といったところだ。函館駅は深夜と早朝に寝台特急の発着があり、未明にも急行『はまなす』が発着する。眠らない駅である。
砂原線経由の普通列車、長万部行きは4番線ホームだ。白いディーゼルカーがゆっくりと入線した。両側に運転台を持つキハ40形を4両も連結している。JR化後はローカル線の車両数の見直しが進み、たいていは1両、長くて2両である。4両編成はかなり長く感じる。ちょっと嬉しくなって、1両目の座席に鞄を置いてホームを歩いてみた。ところが手前から1両目から3両目までは大沼止まりで、砂原線に入る列車は先頭車だけだった。母に声をかけ、最後尾から先頭車まで移動する。函館付近は大沼までが通勤通学エリアで、この列車は上りラッシュ向けの回送を兼ねているようだ。
操車場の向こうに函館山。
キハ40の窓を開けた。元々窓が閉まっていて、乗車したときに冷房が入っていなかった。歩いていた運転士さんに聞くと、冷房車ではないという。
「ふだんはクーラーなど要らないところなんですよ」と苦笑い。
こんなに蒸し暑い朝は珍しいという。
函館駅を発車すると、しばらくは構内を走行する。青函連絡船の拠点だったこともあり、留置線も多く、車両工場もある。青い北斗星色のディーゼル機関車や、編成を解かれた特急車両が並んでいる。次の五稜郭駅も車両基地がある。快速『海峡』に使われた青い50系客車があって、その向こうには国鉄急行色のディーゼルカーが見えた。形式は解らない。市街地を出ると、列車は少し高いところを走る。うねった大地に畑と家が連なり、その向こうに雲をふわりとまとった山が並んでいた。
七飯で隣のホームに同じ色のキハ40がいた。製造番号は1800とキリがいい。調べてみたら、北海道のキハ40をワンマン化改造して700番台とし、さらにリフォームして延命すると1700番台になって、その100両目から1800番台になったそうだ。
小沼から駒ヶ岳、定番の車窓。
七飯駅で線路が別れ、合流すると、左手に湖が見える。大沼国定公園の小沼だ。遠くに駒ヶ岳を望むところ。東海道新幹線の富士山と同じくらい定番の景色である。駒ヶ岳山頂は雲に隠れているけれど、手前に青空もある。天候は回復基調かも知れない。
大沼駅に到着。
後部3両を切り離す。
大沼駅で9分間の停車。ここで後部3両を切り離す。その作業を見物しつつホームを散策する。分岐する列車と合流する列車が輻輳する駅だから、分岐器と信号機がたくさんある。信号はすべて赤。豪華だけど、これだけの設備に対して列車の数は少ないところが寂しい。大沼-東森間は、先に今の本線が開業し、その後勾配区間を避けるため迂回する砂原線が造られた。そして車両の性能が上がると、距離の短い元のルートに本線機能が戻された。ところが砂原線も海沿いの集落から乗客があって残された。
1両単行で身軽になったキハ40が動き出す。何度も通った本線が左に別れていく。こちらは大沼に沿っているけれど、岸まではちょっと離れており、湖面、いや沼面は見えない。大沼は大きいので湖ではないかと思うけれど、湖と沼の違いは水深である。5メートルより浅ければ沼として扱うそうだ。
この列車は大沼の次の池田園駅に停車すると、次の流山温泉駅は通過する。観光地らしい駅名だけど停まらない。いや、観光地だから早朝の客は来ないのだろう。時刻表を調べたら終列車も停まらず、上下4本ずつしか停車していなかった。その流山温泉駅だが、通過するときに意外なものを見た。東北新幹線の初代の車両である。北海道新幹線の開通を願って設置したという。流山温泉はJR北海道とJR東日本の子会社が共同開発した温泉地だそうで、北海道新幹線が開業すると、目論見の賑わいになるかも知れない。
流山温泉駅を通過……新幹線を追い越した(笑)
流山温泉を過ぎると次の停車は銚子口駅である。実は、この銚子口駅から大沼駅までは乗車済みである。29年前、1981年の8月7日で、これが私にとって北海道の鉄道の初乗り、そして一泊以上の鉄道旅行としても初経験だった。私は中学生だった。ひとりで銚子口駅から列車に乗った理由は、単なる私のわがままだった。
私は当時、父の友人が主催するアマチュアレスリングクラブに、年に一度のサマーキャンプだけ参加した。この年は大沼公園近くの国民宿舎で開催された。楽しいイベントだったけれど、周囲は毎週のように切磋琢磨する仲間たちで、年に一度しか現れない私は浮いていた。そのせいか「行きは全員が飛行機で行ったけれど、帰りは好きな列車で帰りたい」と主張した。出発の朝、仲間が全員で駅まで歩いて来てくれた。空気の読めない大人の引率者が万歳三唱を唱え、出征兵士のように扱われた。他の乗客が何事かと私を見た。気まずい旅の始まりだった。
06時34分。その銚子口駅に着いた。石積みのホームは覚えていたけれど、待合室を兼ねた小さな駅舎には見覚えがなかった。
29年ぶりの銚子口駅
あのときはこのホームから上り列車に乗った……。
-…つづく
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