第119回:"純"離れの文学賞
更新日2009/07/23
アメリカには、日本のような文芸雑誌がありません。日本で出版社が赤字覚悟で出している"純文学"専門の雑誌に該当するような雑誌が見当たらないのです。"純文学"というのもおかしな表現で、それ以外はすべて"不純文学"になってしまいそうな言い方です。
ノーベル文学賞をとるような作家たちは、いきなり本を売り出すか、大手の雑誌、『ニューヨーカー』とか『エックスクワイアー』、『プレーボーイ』誌に掲載したりします。
へミングウェイ、ノーマン・メイラーもそんな雑誌に小説を載せました。女性の裸が売り物の『プレーボーイ』のような雑誌に小説を載せると、なにかそれだけでポルノ小説家のレッテルが貼られそうですが、そんなことはないようです。
早く言えば、アメリカには"純文学"と"不純文学?"の色分けがないようなのです。日本人は何かにつけて"純"を好む傾向があると思いませんか? 少し、古いデータですが、喫茶店の名前で"ジュン"がナンバーワンだったし、"純生"と称したビールも売れているようです。100パーセント純粋モルトのウィスキーに人気が集まっているようですし、ペットでも純血種でなければダメという人が多いように思えます。
ところが文学の世界では、日本人の"純"離れが進んでいるようです。私も"純文学"なぞ、大きな賞でも貰い、話題になったものを覗き見趣味で読む程度です。何度か最近の受賞作を読もうとしたことはありますが、どうにも退屈で、途中で投げ出してしまいました。どうでもいいことをウジウジと書き連ねるのが"純文学"のように思えてくるのです。
はっきり言えば、退屈で面白くないのです。血を沸かすような感動も、震えるような感情の高ぶりも、読んだ後、本の世界に浸りきって頭がボーッとなるような読後感もありません。私にとって外国語である日本語の語感を私がまだよく掴んでいないせいなのかもしれませんし、私の歳のせいかもしれませんが。
今年の文学新人賞は、イラン人のシリン・ネサマフィさんが受賞しました。彼は大阪のシステムエンジニアの会社で働く技師で、日本に来てからまだ10年しか経っていません。そんな短い期間で文学を書けるほどのレベルに到達できるものでしょうか。いつまでたっても上達しない私の日本語を省みると、全く驚異です。
彼は子供の頃から、物語を書くのが好きで、イランにいた時から沢山童話や小説を書いては、家族や友達に読んであげていたそうですから、創造的言語能力が高かったのでしょう。日本にきてから、テレビのバライティーショーを見て、語感を掴んだと言っています。そして日本語で最初から考え、ストーリーや人物を創造して行ったそうです。
昨年、芥川賞を受賞した中国人の女性、楊逸さん、そして今回のシリン・ネサマフィさんのように、日本語でモノを書く外国人がもっともっと増え、日本語に新しい語感を与えていくことを期待しています。そして"純文学"と"不純文学"の境界がなくなり、渾然一体となって普遍的文学を生み出していくことでしょう。
同時に、日本人が英語で小説を書き、ピュリツアー賞を受賞する日が来ることも願っています。
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