第147回:エステファンとジャンのこと
エステファンとジャンのカップルと最初に知り合った時、典型的なラテンマッチョと北ヨーロッパ女性組に見えた。エステファンは縮れた髪こそラテン的な黒ではなく濃い茶褐色だが、引き締まった男らしい顔つき、いかり肩、ティーシャツの半そで口がはち切れんばかりの上腕筋といい、まるで体操の選手のような身体の持ち主で、動きもキビキビしていて軽く、歩き方に独特のリズムがあった。
一方のジャンは、エステファンと同じくらい身長がある痩せ型で、モデルになれそうな体つきに面長な顔、当時流行していたトンボメガネをスッと通った鼻筋にかけるか、額の上にのせるかしていた。それがイチイチ決まっていた。二人が一緒に『カサ・デ・バンブー』のゲイトを開けて入ってくると、客が“オッ!”といった表情で目を向けるほど、カッコいいカップルだった。もっとも、エステファンの見事に引き締まった裸の上半身、腰に薄いパレオ(布)を巻いただけで胸を露わにしたジャンは人目を引いた。
ジャンとはいつもスペイン語で話をしていたので、彼女がアメリカはミシガン州産だと知ったのはかなり後になって、ジャンの同級生がかの国からやってきて、米語で会話しているのを耳にしてからのことだ。それほど、ジャンのスペイン語は見事だった。
エステファンはカジェ・マジョール通りに、テキヤの商品をそのまま店内に持ち込んだような観光客相手の何でも屋ブティックを持っており、ジャンもそこで働いていた。というより、ジャンがその店全体を取り仕切っているようだった。トンボメガネをかけたジャンの明るい声が店の中に響いていた。
イビサのサッカースタジアム(現在はUD Ibizaの本拠地)
いつの年か、シーズンオフに全くの酔狂から、イビサのサッカーチームの試合を観に出かけたことがある。後にも先にもその一回だけだった。イビサのチームは3部リーグ最下位周辺を彷徨っており、相手チームも同じようなレベルのマジョルカ島の田舎町チームだった。2部リーグまでは給料も出て、契約金が動くプロと呼べるが、3部リーグ以下は地元のスキ者がやっているアマチュアに毛が生えたレベルで、遠征の際には、旅費、経費は出るが、地元で勝てばスポンサーの地元企業からスズメの涙ほどのご祝儀が手渡される程度で、それで食うのはできない相談だった。
仰々しくも、“レアル・デポルティーバ・デ・イビサ”(Real Deportiva de Ibiza)と銘打ったイビサのチームにエステファンがいたのだ。イビサが1点を入れ、地響きをするほど馬鹿でかい音を出す花火が打ち上げられ、イビサはその1点を守り抜き勝った。試合の後、メンバーが集うバールへエステファンに誘われるままに流れた。そこでサン・ミゲール(San Miguel;ビールの銘柄)で祝杯を挙げ、エステファンは、「このままの勢いで勝ち続ければ、今シーズン終わりには2部リーグに入り、2年後には1部リーグで、レアル・マドリードと対戦するぞ…」と、言った本人でさえまるで信じていない夢を語り、幸せそうに笑っていた。
ジャンはよく『カサ・デ・バンブー』に来てくれた。彼らのブティック兼土産物屋は、昼は閉め夕方に開けるので、昼のひと時をロスモリーノスのゴロタ石海岸で日光浴し、泳ぎ、『カサ・デ・バンブー』で軽食を摂り、仕事に入るのだろう。旧市街からロスモリーノスへは、彼女のモペット(moped;原付自転車)で5分とかからない距離だ。ジャンはピサ屋『ピノッチョ』(Pizzeria Pinocho)のペドロとカレンのカップルと一緒だったり、ディスコ『KU』のディスクジョッキー、アニマドールの米国の黒人デイビッドと誘い合わせたりで、週に1、2回のペースやってきた。
エステファンは仕入れにヴァレンシア、バルセローナに行っているとか、サッカーの練習、遠征とかで、一緒に来ることは少なくなった。その代わりに、時々5、6歳の坊やを連れてきた。「お前たちにこんな立派な息子がいたのか?」と言う私に、「私のじゃないわよ、エステファンの前の奥さんの子よ…」と言いながらも、坊やを優しく見守り、気を配り、男の子もジャンによくなついている様子がありありと伺えた。行儀のよい、大人しい子供で、私がアイスクリームにたっぷりとチョコレートシロップをかけたのを、「これは私からのご馳走だよ」とテーブルに持っていくと、はにかむように「ムチャス・グラシアス(どうもありがとう)」と丁寧に応えるのだった。
朝の買出しの時、旧市街の市場近くのバールでエステファンを見かけることがチョイチョイあり、向こうから大声で呼び掛けてきて、カフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)をおごったり、おごられたりで、サッカー談義を聞いたものだった。
CASINO de IBIZA
エステファンとジャンの間に何があったのか正確に知る由もないが、決定的に彼らの仲が崩れたのは“カジノ”が凶元だったと思う。イビサに“カジノ”がオープンした年、私も売り上げを握りしめ、通いつめ、当然負け続け、その年のシーズンオフの旅行をフイにしたことは以前も書いた。“カジノ”で出会うのは地元の人間、私のような小さなショーバイをやっている人ばかりだった。その常連の中にエステファンがいた。私が店を閉め、カジノに行く夜中の1時か2時頃に、必ずと言ってよいほど、彼の姿があった。
私自身、切れのよい勝負師ではなかった。どちらかといえば、引き際、負け際の悪い愚図だった。ところが、私以下の愚図、ダラダラと賭博場に居座り、ルーレット、ブラックジャック、最後の小銭はスロットマシンにつぎ込む連中が多いのには驚かされた。パチンコ屋で床に転がっている玉を拾うタイプの人間だ。そこには、楽しく遊び、賭けを楽しむ姿は微塵もなく、麻薬的に勝負事に飲み込まれている姿があった。ああまで落ち込みたくないと思わせる泥沼に嵌まり込んでいるのだ。
エステファンは賭博場に出入りする人の間では“ご法度”とされている、「チョット、金を貸してくれ、少し回してくれ」と、勝ち目の出ている知り合いにやり出したのだ。勝っている人は、ツキが落ちるとして、金(この場合はカジノのプラスティックのトークン、チップだが…)を貸すのを嫌う。それに貸した金やチップは、まず100%戻ってこない。ドブに捨てるようなものなのだ。それをエステファンがやり出したのだ。エステファンは私にも、「すこし回してくれ…」と何度か言ってきた。私は、気の弱さから「NO!」と言えず、手元に多少プラスティックのチップが溜まった時、彼にやっていた。
私はその後、悪夢のような“カジノ”狂いをスッパリと止めた。
秋口になり、『カサ・デ・バンブー』を閉め、散々“カジノ”に寄贈したので、懐がえらく寂しくなり、即日出かけているはずの旅にも出られず、冬のイビサに居残った。『ピノッチョ』でスパゲッティを食べている時だった。ジャンが通りかかり、一人でいる私を見つけると、即座に私のテーブルの向かいに座り、いきなり英語で話し出したのだ。
「私は今一人よ、まったくの自由な身よ…」と始め、5年間もエステファンと全く無駄な時間を過ごした。あの店だって、私がいたからこそ、どうにか持っていたけど、もう我慢ができない。彼は売り上げを持って“カジノ”で毎晩すってくるんだから、私はいったい何ために店番していたの? 彼は自分のことしか考えないスペイン・マッチョの典型よ。私、すぐにアメリカに帰るわ…」とまくし立てたのだった。
それまで、エステファンとジャンとは『カサ・デ・バンブー』に来てくれる客としての接触しかなかったから、ジャンの唐突な長い独白にどう対応すべきか判らず、ひたすら聞き役に回るしかなかった。
一月も経ってから、『ピノッチョ』のペドロとカレンから、ジャンはアメリカに去り、エステファンの店も人手に渡ったことを知った。
冬の間、バラ・デ・レイ通りのキオスク(新聞、雑誌の販売所)で新聞を買い、日差しが暖かければ、『カフェ・アルハンブラ』のテラスで、曇って寒い時は『カフェ・ミアミ』で、コーヒーを飲みながら新聞に目を通すのを日課にしていた。そんな風に街中に下りた時、失業保険金を受け取るためにできる長蛇の列に、エステファンを見つけたのだった。
「“カジノ”通いはもう止めたよ、おかげでスッテンテンになってしまったからな~。サッカー? ベンチワーマー(補欠)に回され、出る幕がなくなり、もうチームから抜けたよ…。この冬を乗り切れば、来シーズンにはチーズとワインの店を開くつもりだ…」と、明るく語っていたが、私にはどこか虚しく響いた。
次の年に、エステファンの姿を街で見かけなかった。
-…つづく
注:イビサのサッカーチームは、2015年に“ユニオン・デポルティーバ・イビサ(Unión Deportiva Ibiza)” と再オーガナイズされ、スペインのリーグも系統を変え、現在2部リーグのBにいると、スペイン在住の友人が教えてくれた。
Unión Deportiva Ibiza
第148回:チャーリーとマリア、そしてリカルドとイザベル その1
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