第145回:オランダ人のリータ叔母さんのこと
シベリア鉄道の長距離寝台列車は当時の貧乏旅行の定番だった
私が初めてシベリア経由の長距離列車でヨーロッパに出かけた時、知識として西欧の国々では、民族と国家が必ずしも一致していないことはボンヤリと知っていた。西欧は遠い存在で、郷里の札幌で西洋人を見かけることはあったが、言葉を交わしたこともなく、“ウワ~、デカイナな~”という印象を持っただけだっだ。
高校の時、交換留学生としてアメリカ娘が一人ずつ順繰りで在校していた。どういう理由からか、女子ばかりだったが、彼女らは申し合わせたように、我が同胞の女学生より首ひとつ背が高く、しかもバーンと太めで大きかった。もっとも、当時の食糧事情のせいか、私たち男子にも、女子にも肥満児などは存在せず、揃いも揃ってガリガリに痩せていたから、アメリカ人留学生の体格は一際目立った。
ヨーロッパをヒッチハイクで移動し、ユースホステルを泊まり歩くうちに、自分が抱いていた西欧人のイメージを大幅に修正しなければならなくなった。皆が皆、ハリウッドやフランス映画のスターのような容貌を持っているわけではないこと、金髪も少ないが、更にその上、金髪にもブスが多いことに気が付いたのだった。逆に、黒髪のラテン系、スペイン人、イタリア人に美形が多く、18歳未満という条件を付けると80%以上は美人の範疇に入る…のではないかと思ったものだ。
『カサ・デ・バンブー』をオープンしてから、イビサにやって来るヨーロッパ人という条件付ではあるが、地方性の豊かさ、歴史を引きずっている国民性の違いが見えるようになったと思う。その中で、オランダ人は際立って適応性に富み、柔軟だった。第一、彼らの言語能力は一体どうなっているのだと言いたくなるほど卓抜していた。イビサに来る、イビサに住むオランダ人で、英語が喋れない者はまずおらず、ドイツ語、フランス語も自由に操り、すぐにスペイン語を達者に話すようになり、半年もすると、イビセンコ(Ibicenco;イビサ語)すら日常会話に不自由しなくなるのだ。
言語の能力は、その人間の知的レベルとは無関係だとは言うものの、彼らがギュンターとドイツ語で話し、ピーターと英語で冗談を言い合い、『カサ・デ・バンブー』のウェイトレスのアントニアがアンダルシア出身だと知ると、アンダルース(Andaluz;スペイン南部のアンダルシア訛り)を使うのだ。彼らの傍にいると、なんだか自分がとてつもない愚鈍な低脳に思えるのだ。
リータさんはいつも一人で『カサ・デ・バンブー』にやって来た。ふっくらとした丸顔に白髪かかった縮れた頭髪、明るい灰色の良く動く目を持った、若い時にはさぞかし魅力的だったろうと思わせる容貌の持ち主だった。服装に独自のファッションセンスがあり、いつも薄手のインド更紗の生地のゆったりとした長いスカートに清楚なブラウスで、身体を締め付けるところがまったくないものだった。
初めてやって来た時、私が日本人だと知ると、「アア~、そうですか、日本人ですか…」と、茶目っ気たっぷりに日本語で応えたのだ。彼女の日本語はとても限られたものだし、どこか古臭い、明治の匂いがした。私たちの会話はすぐに英語に切り替えられた。まだ、私の英語の方がリータさんの日本語より相当ましだったからだ。それでも時々、「ハイッ!」とチャンバラ映画の侍のような、合いの手を打つのだった。
当然、どこで日本語を覚えたのだと尋ねたところ、日本の捕虜収容所に2年以上いたと言うのだ。リータさんが10歳の時、インドネシアに日本軍が侵略してきて、オランダから統治権を奪い、オランダ人やイギリス人、アメリカ人を収容所に収容した。彼女は両親、家族と共にそこに入れられ、本国に送り返されるのを待つことになった。ところが、どこの国も遠いアジアにまで母国人を迎える船を送る余裕などあるはずもなく、結果、終戦まで収容所に留め置かれたというのだ。
ジャカルタの外国人捕虜収容所(Wikipediaより抜粋)
私はかつてアウシュヴィッツやホロコースト博物館を訪ね歩いたことがある。旧日本軍が中国、朝鮮で行った残虐行為も知識としては知っていた。だが、それらは歴史の一頁として見ただけのことだ。人類は二度とこんなことを繰り返すべきでない…というアリキタリの感慨を持っただけだった。目の前に、私の国の軍事政権によって強制収用された人間がいるのがショックで何と応えてよいか分からなかった。日本の軍事政権が行ったことにしろ、私にも責任の一端がある…ような感傷があった。アイツ等は気違い的な軍事官僚、警察政権だったと言い逃れするのは簡単だが…。
私の顔色が変わり、対応に困っているのを見て取ったリータさんは、「なにもアナタの責任じゃないわよ。歴史に“もし”はないけど、収容所に入れられる前にオランダに帰っていたら、ドイツ軍の官制下でもっと酷い目に遭っていたかも知れないんだから…。そりゃ、もう一度収容所に戻ろうとは思わないけど、私はこれでも10歳くらいの時は結構可愛らしく、日本の将校、軍人で特別目に掛けてくれ、こっそりと食べ物をくれた人もいたのよ。でも、食べ物とトイレには泣かされたわね…」と実にアッケラカンとしているのだった。
ちょっと高級なリオハワイン “Marques de Murrieta”
私は、我が同胞が犯した罪の償いとしてと、冗談めかして、ワインを一本ご馳走したことだ。リータさんも打てば響くように、「それじゃ、毎日来て、収容所の話をして、タダのワインにありつこうかしら…」などと即答するのだった。リータさんは相当イケる口で、しかもワインに関して良し悪しの厳しい基準を持っていた。
リータさんはいつも遅い午後、暑い盛りに汗をかきながらやって来て、「こんなおバアさんが炎天下歩いてくることに感謝しなさい!」と言い、まずは“サン・ミゲル(San Miguel)”ビール、そしてゆっくり食事をしながら、お気に入りの “マルケス・デ・ムリエタ(Marques de Murrieta)”を一本空けるのだった。
二度とインドネシアでの捕虜収容所の話をぶり返すことはなかった。
-…つづく
第146回:紀元前654年からのイビサ小史
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