第146回:紀元前654年からのイビサ小史
西地中海の小島イビサの歴史は紀元前654年まで遡れる
“イビサ”という呼び方は、現スペイン語、カステリャーノ(Castellano)の“Ibiza”をカタカナ読みにしたものだ。それを便宜的にこのコラムで使ってきた。本来カタルーニアの一部とみられていた(これにはイビセンコは大いに反発するだろうけど)からカタラン語(Catalan)で“Eivissa”と書き、「エイビッサ」、そう呼ぶのが適切だとする人たちも多い。古い英国のチャート(海図)には“Ivica”と書かれている。
西地中海の島としてイビサの歴史は古い。
優れた航海者、貿易業者として地中海全域を航行していたフェニキア人が、イビサに絶好の投錨地を見つけ、基地にしたのが紀元前654年で、そこが今のイビサ港の始まりとされている。
フェニキア人はそこを“Ibossim”とか“Iboshim”と呼んでいた。だが、フェニキア人が植民地化する前に、原住民が採取生活に似た暮らしをしながら住んでいたことは確かで、彼らは文字も、後世に残るような構築物も残さなかったから、どんな民族だったか想像の手がかりもない。
ギリシャ文明以前に、フェニキア人が植民地と呼ぶべきか、単なる船だまり的投錨地として利用してただけなのか、それにしても紀元前654年とはっきりとした年代を記録しているほどだから、交易所として結構重要な寄港地になっていたと想像してもよいだろう。
アメリカ西部の交易所はトレーディング・ポストと呼ばれ、駅馬車が馬を交換するだけの、草原の一軒家だったり、ちょっとした砦のように木の柵でぐるりと囲み、何世帯かがその砦の中で暮らしていたりした。イビサは、海のトレーディング・ポストだったのだろう。
イビサのような小さな島は、独自の王国を築くどころか、島全体で採れる食料は絶望的に限られているので、必然的に島を訪れる、襲ってくる歴史の波に洗われることになる。自衛の軍など待ちようがない小さな島なのだ。
フェニキア人の残した青銅のコイン、土器が未だに出てくる。『カサ・デ・バンブー』のあるロスモリーノスからトンネルを抜け、イビサの市街に入る前に剥げた丘陵地があり、その中にいかめしく大きい石造りの建物がある。それがイビサの博物館で、何時行っても人影がない。幾度か小中学生が黄色い声を上げ、先生がそれに負けない大きな声で説明するのに出くわしたことはあるが、これほど閑散とした建物はほかにないのではないか。
その中に、フェニキア時代のモノ、コインと土器が展示されている。フェニキア時代のモノは、その後のギリシャ、そしてローマ、カルタゴ時代に比べ、素朴というのか、粗雑に見える。ハゲた丘にその時代の住居址があり、観て回ることができる。イビセンコのぺぺに言わせれば、「あんなコインは俺でも何枚か持っている。あそこにあるのはクズばかりで、考古学的価値があるものや、古物商で高値を呼ぶものは全部カタラン(カタルニャー人)が持ち去った」ということになる。
ローマ時代の灯台が島の岬のあちこちに遺っている
イビサはフェニキア時代にアッシリアの侵入に遭い、その後、長いカルタゴ支配の時代に入る。それが紀元前400年頃だから、言うことが一々どえらく古い。今でも土産物屋さんで素朴すぎる泥人形“タニッ(Tanit)”の塑像を買うことができる。タニッはその時代の女神で、鼻筋の通った美形の女神だ。
ギリシャ時代にはピツイッサ(Pityossai;松に覆われた島という意味)と呼ばれていた。時機にローマの支配下に入り、ローマ人はここを“Ebusus”と呼び、イベリア半島統治の前進基地とした。このローマ時代の遺物は実に多い。現代の灯台より航行する時に役に立つローマ時代の見張りの塔(Roman Tower)は海岸線の随所に見られるイビサの風物誌になっている。チャートにもそれが書き込まれている。
ローマの軍人スキピオ兄弟(Scipio)がカルタゴのマーゴ将軍に負け、島を去ったのが第二ポエニ戦争の紀元前205年のことで、最終的にローマが勝ち、地中海の制海権を取り戻し、またイビサに、しばしローマ時代が続く。
一々並べると限りがないほど、様々な民族がイビサを訪れ、制覇している。衰えてきたローマの勢力を見透かすように、ヴァンダル族がイビサを基地にして、イベリア半島に乗り出し、ビザンチン文化をかすかに落としていった。
しかし何と言っても、本当の意味で植民地化したのはモーロ人(北アフリカからやってきたムーア人、モスレム)だった。彼らは腰掛け的にイビサを利用したのではなく、本格的な殖民を開始し、今のダル・ヴィラ(Dalt Vila;港を囲むような丘陵に張り付くような旧市街、住居地、カスバ)を形造ったのも彼らだった。
300年以上モーロ人に支配された割に、モスレム的遺物、遺跡が少ないのは、その後のキリスト教徒の制覇の時代に徹底的にモスレム臭のするモノを破壊したからだろう。また、1110年には、はるか彼方スカンジナヴィアからヴァイキングがやってきて荒らし回り、根こそぎ持ち去ったからだろう。
アラゴン王、ハイメ1世(Jaime I)
イビサが最終的にモーロ人を追い出し、キリスト教徒の手に落ちたのは、この場合はカトリック教徒だが、アラゴン(スペイン北東部、バルセロナ)の王、ハイメ1世(Jaime I)の1235年になってからのことだ。
決定的に雨量が少く、耕作面積が限られたイビサでは、生きていける人間の数も知れたものだ。飛行場近くに残されているイビサの風物となっている風車は、地下水を汲み上げる、農耕の灌漑用水のためのものだ。それとて、汲み上げられる地下水たるや、石灰分の多い、かつ塩分が抜け切っていない酷い硬水で、とても飲料になる水ではなく、そんな水を受け付ける農作物は限られていた。
コンキスタドール(Conquistador;征服者)たちが、一攫千金を夢見てイベリア半島から続々と南米、中米に押し寄せて行った時、イビセンコも食えない島を逃れて大量に移民して行った。
イビサは貧しい島だった。ただ西地中海では一番イベリア半島寄りにあるという地理的条件で様々な民族、冒険者たちに利用されてきた。絶好の投錨地、現在のイビサ港があり、交易の基地になる条件を備えていただけがイビサを特徴付け、制圧者は価値を見い出していたのだろう。
イビセンコはどこからやって来たのか? という結論が出る見込みのない不毛の議論がある。アンダルシア人の血には30数パーセント、アフリカ系モーロ人の血が混ざっているという風に、民族のルーツを探りたがる人間がいる。それが嵩じると、ナチス・ドイツの気違いじみたアーリア人種、純血崇拝にまで発展する危険性が出てくる。イビサ人は雑種も雑種を極め、入っていないのはモンゴロイド系だけではないかと思いたくなる。ところが、全く東洋系の顔を持ったイビセンコに会ったことがあるし、モロッコに連れて行ったら、そのままモロッコ人として通る容貌のイビセンコもいる、真金髪のイビセンコもいる。
この総人口14万7,914人(2019年調べ)のちっぽけな島は、人種のルツボなのだ。
朋友ぺぺに言わせれば、「犬でも雑種の方がジステンバ(distemper;ヒトのハシカに似た伝染性ウイルス疾患)に罹らないし、あらゆる病気に抵抗力がある。俺たちイビセンコもそんなようなモンさ…」と自慢する風でもなく、そんなことはどうでもいいことだと流すのだ。
ぺぺ自身は、金髪に近い明るい色の頭髪、ゲルマン系を思わせる容貌の持ち主だが、妹のペパは黒髪で東洋系の容貌を持つ美人なのだ。そして今、ヨーロッパ全土から押し寄せる観光客とイビセンコ、イビセンカの間に更なる混血が進んでいる。
私自身、イビセンコに一滴のモンゴロイドの血も残さず、イビサの混血に貢献することなくイビサを去ることになったのだが…。
-…つづく
第147回:エステファンとジャンのこと
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