第132回:ハングリー・スピリッツは成功の鍵
今思えば…と言うより、その当時からそう気づいてはいたのだが、私にはハングリー・スピリッツが決定的に欠けていた。イビサには自分を発展させるチャンスがたくさん転がっていた。ただ、やる気とマメマメしく動き回るエネルギーさえあれば、ホステレリア(hostelería;バル、レストラン、ホテルなどの接客業=ホスピタリティー)で成功を収めることができると思う。マ~、低いレベルの、島の中でのことではあるが…。
イビサの旧市街、港には、当時、フレンチレストランが3軒あった。このコラムにしばしば登場する『サン・テルモ(San Telmo)』、『エル・ブラッソン(El Blason)』、それに『サウサリート(Sausalito)』で、『サン・テルモ』は庶民的なフランス料理を出し、メニューもスッキリしたもので、美味しく、ボリュームたっぷりをウリにしていた。一方の『サウサリート』と『エル・ブラッソン』は、ヌーベルキュイジーヌとまではいかないが、凝った料理を出し、盛り付けにも趣向を凝らし、従って値段もそれなりに高かった。
老舗のフレンチレストラン“Sausalito”(1982年当時)
ぺぺはその3軒を渡り歩くように、去年は『サウサリート』、今年は『サン・テルモ』と、ウエイターをこなしていた。スペインでは、ペペが多過ぎて混乱するのだが、このペペはイビセンコの朋友のペペではなく、アリカンテ(Alicante;バレンシア州)から来たぺぺで、愛嬌のある顔に縮れた頭髪のヤセポッチで、吹けば飛ぶような…小男なのだが、彼のウエイターぶり、身のこなし、接客態度はウエイターの鑑(カガミ)と呼びたくなるほどのものだった。
第一に、動きに無駄がなく、皿を引き、食べ散らかしたテーブルを片付ける時でさえ、他のお客さんの様子を目の端に捉えているのだ。そうかといって、注文を取る時には、冗談を交えながらも、料理のこと、付け合せのことを完結に説明し、席についた客に対して、自分が特別大切にされている…と個々に感じさせるのだ。私も、彼のウエイターぶりを観察し、実に多くのことを学んだ。ぺぺと親しくなったのは、彼が『サン・テルモ』で働き出してからだ。それまで、ぺぺは『サウサリート』にいた。
『サン・テルモ』のテラス席(参考イメージ)
ペペが『サン・テルモ』に来たのは、オーナーのイヴォンヌが、ペペの条件である、夕方7時に店に入るという特例を許したからだった。通常、港のレストランは午後6時に開店し、ウエイターたちはその2時間ほど前には店に入り、広いテラスにテーブル、椅子を並べ、テーブルクロスをかけ、塩コショウを置き、小さな花を飾り、ワイングラスと水用のグラスを並べ、またグラスに入ったローソクを黄昏とともに点灯できるようセットしたりの準備にかかる。それをペペに重役出勤を許したのは、店の一番のラッシュが、夕食の早い北欧、ドイツ人が押し寄せる午後9時前後で、それから閉店の午後12時までがピークになるのだった。オーナーのイヴォンヌにとっても、都合が良かったのだ。開店準備をするウエイターは『サン・テルモ』には5人いたのだから、ピーク時にだけ来てくれる優秀な助っ人はとても貴重だったのだろう。
ぺぺは昼間、もう一つの仕事を持っていた。イビサの空港で、独占的なカフェテリアを雇われ店長の型で切り盛りしていたのだ。空港内のカフェテリアには午前6時に入り、夕方の午後6時まで働き、そこから『サン・テルモ』に駆けつけるという二つの仕事をこなしていた。
ペペはその時、20代の後半だったと思う。彼の奥さんは頭の回転の速いアルジェリア人で、スペイン語に相当アラブ風の訛りがあった。彼女は『サン・テルモ』のキャッシャー(会計)をやっていた。おそらくイビサで一番最初にコンピューターのレシートを使い、それがワイン、ビール、何が何本出たかの集計に結び付け、それによって仕入れができるソフトを導入したのも彼女だったと思う。2年目からは各ディッシュが幾つ出され、それによる肉や野菜の消費の容量が分かるシステムにまで発展させたのだった。
3年ほど、ペペは二つの仕事、昼は空港、夜は『サン・テルモ』の生活をこなしていた。「お前、それ、やりすぎじゃないか? それでよく足取りも軽く動き回れるもんだな…」と言うと、ぺぺは、「立ったまま眠らないように歩き回っているだけだ…」と、ニヤリと笑うのだった。
当初、イビサの空港は小さく、ハイシーズンでもマドリッドから日に2便、バルセロナから4便、後はチャーターフライトがロンドン、フランクフルト、デュセルドルフ、ミュンヘンから不定期に結んでいるだけだった。それが、数年を経ずして、ヨーロッパの主要都市のすべてからジャンボジェットが発着するようになったのだ。
ぺぺが空港のカフェテリアで働き始め、じきにソシオ(socio;相棒、共同経営者)になり、事実上のオーナーになったのはそんな時だった。飛行場が大改造された時、利権と言うのだろうか、新イビサ空港の広大なカフェテリアの権利をそのまま引継ぎ、牛耳るようになっていた。ペペは『サン・テルモ』を辞め、100%空港のカフェテリアに打ち込んでいった。
現在のイビサ空港内のカフェテリア(参考イメージ)
オフシーズンになり、島を出る時、幾度となく空港のカフェテリアでカフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)にクロワッサンを摂ったが、ぺぺが居合わせた時には、決してお金を受け取ろうとしなかった。「季節労務者(イビサでの観光客相手の仕事はすべて半年ショーバイだった)でなく、こうして一年中働けるのは幸運なこった」と言うのだった。ぺぺは例によって、いつものごとく、愛想よく対応しながらも、手を休めることなく、彼が使っている数人の従業員へも目を飛ばし、監視怠りない様子が伺えるのだった。
ペペは優れたウエイターであるだけでなく、経営者の才があることも証明したのだった。
私はと言えば、半年ショーバイに甘え、どうにかオフシーズンの4、5ヵ月間の貧乏旅行ができるだけの資金ができればそれで良いとばかり、『カサ・デ・バンブー』を切り盛りし続けたのだった。
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