第101回:突然の訪問者
日当たり抜群の2階のテラス
その時、アパートのテラスで朝食を摂っていたから、ピークシーズンを終え、『カサ・デ・バンブー』をすでに閉めていた頃、そしてまだ潮風が心地よい10月だったと思う。
ドアをノックする音と同時に、老犬ボクサーのアリストはこの時とばかり下顎を突き出すように太く低い声で、大きく吼えながら真っ先に入口のドアに向かった。私がアリストの首輪を掴み、ドアを開けると、そこに痩せ型、長身の男が立っていた。そして、「アリスト~~、元気でいたか~」とアリストの頭をなで、軽くたたき、アリストの方は、本当に彼を覚えていたのか、名前を呼ばれ、頭をなでられると、ただ反射的に切られたシッポを振っただけのか分からないが、定番の歓迎の腰振りダンスで出迎えた。
彼は自己紹介をし、私のアパートに以前住んでいたことがあり、数年振りにイビサを訪れ、素晴らしい日々を過ごしたアパートを外からだけでも見ようと近くまで来たところ、私がテラスで、のんびりとコーヒーを飲んでいるのを目にし、ツイ、ドアをノックしてしまった、と言うのだった。
私は、彼を招き入れ、コーヒーとクロワッサンの簡単な朝食を供したのだった。彼の名はマイケル=マイクだったと記憶している。マイクは全く遠慮せず、飾り気のない部屋を見回しながらテラスの椅子に腰を降ろしたのだった。
私がこのアパートに住み始めた時、インド、バリ島的なソファークッションが残されたままになっていた。一枚の油絵も壁に掛かったママになっていた。それは未完成のもので、薄紫の下塗りに緋色の民族衣装を着たマサイ族が直立しまま宙を突くように跳んでいる奇妙な絵だった。私は、本来のズボラさから、その絵を暖炉の上の一等席に掛けっぱなしにしていたのだ。私のような素人が見ても、確かなデッサン力のある人が描いたものだと知れる絵だった。
私は彼がその絵に目を留めたのに気が付き、あの絵はお前が描いたのかと訊いたところ、彼、マイクは、「いや、俺じゃない。ここで一緒に棲んでいた恋人のキャシーが描いたものだ」と簡単にイビサで過ごした日々を懐かしさを込めて、口数少なく語ったのだった。
彼、マイクと恋人のキャシーがこのアパートで過ごしたのは1年足らずだった。彼らは両者とも芸術家、絵描きだった。彼は細密画のようなディーテイルを描き込むタイプで、オランダ人のキャシーはアフリカの旅からイビサに着いたばかりで、アフリカをテーマにした大胆で幻想的な絵を描いていた。二人はイビサで知り合い、彼が借りていたこのアパートで合流した。
蜜月はひと夏続いたが、マイクは長年の夢、日本刀の刀工の修行をするため日本に住みたかったのに対し、キャシーはニューヨークで絵描きとして成功するのが夢で、どうにも折り合いがつかなかった。マイクがキャシーに未練を抱き、キャシーとのイビサ時代に深い郷愁を抱いていることがアリアリと伺えた。
私はマサイ族の絵を、良かったら持って行かないかと言った時、マイクは一瞬、私の頭の向こう側、はるか遠くを見るような目で見つめ、しばし沈黙し、そして、「イヤ、あの絵はこのアパートにあるべきものだ。私の青春のページはすでにめくってしまったのだから、あの絵もキャシーの思い出もここに留まるべきものだ…」とボソボソと言うのだった。
私は、いま70歳を超える老齢になっても、イビサを懐かしみ、強い郷愁を抱いている自分に気づくのだ。青春の一時でもイビサで過ごした者は、生涯、心の中にイビサを持ち歩くことになるのだ。キャシーが描いた一枚の絵のように、私の一部は海に面した崖の上のこのアパートに残されたままなのだ…。
記憶に焼き付けられたテラスからの眺望
マイクはシアトルでゴムのスタンプ画を創作し、何百種類ものゴム印をオフィスデポやオフィスマックスのような文房具屋のチェーンに卸し、それが充分軌道に乗ったので、日本に刀工修行に出る前に、イビサへ郷愁旅行をしたことのようだった。
「刀工といえばかっこよく聞こえるが、ありゃ、食うや食わずで、とんでもなく長い年月の辛い修行を経て、なお一人前になれるかどうかの補償は全くないんだぞ…」と私自身全く知らない世界のことを諭すように言ったところ、マイクは静かに、「俺は一生に、一本の優れた刀を打てれば、それで良いと思っている。人間の一生とはそういうものだ」と、私が未だに忘れらないでいるコトバを返してきたのだった。そんな風に一生を送れるものだろうか、マイクの気張らない自然態を目の当たりにして、私は深く感動した。
マイクに帰り際、好きな動物はいるか、それは何だと訊かれた時、私は地中海であまり口にできないサケを、もっぱら食い気の方から脳裏にひらめき、その旨を告げた。「上手くデザインしたサケのスタンプがあるから、送るよ…」と軽く約束したのだった。この手のリップ・サービス的口約束は、ほとんど期待できないことを経験上知っていたが、マイクは日本に発つ前に、サケのゴム印と丁寧な礼状を送ってくれたのだった。
イビサのこのアパートでの朝食と私との出会いは、彼のヨーロッパ旅行のハイライトだった、これから日本で最低8年間は修行し、メドがつけばそのまま日本に一生棲むつもりだとあった。
第102回:グラナダからきたミゲル その1
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