第133回:バル『エストレージャ』のパコ親子のこと
イビサに激安のチャーターフライトで避暑客が押し寄せる前まで、大量の観光客と生活物資を運んでくるのはもっぱら船だった。スペイン本土とのフェリーは、トランスメディタラニア海運(Trasmediterránea)が独占的に夏にバルセロナから週2便、ヴァレンシアから週1便しかなかった。ずいぶん後になってから、マジョルカ島からソビエト製の水中翼船が運航されたが、呆れるくらいよく故障し、アレに乗るには純粋の共産主義者でければならないと言われた。アリカンテ(Alicante)、デニア(Dénia)からも小型のフェリーが夏場だけ就航していた。
バルセロナ、ヴァレンシアからのトランスメディタラニアンのフェリーはどんどん新型艇になっていったが、それにしても、カーフェリーのように、舳先や船尾がガバッと開き、車、トラックがスムーズに乗り込めるような機能的な船ではなく、港の設備も整っていなかった。
と言うのは、当時のイビサ港には、幅こそ広いが桟橋が一本しかなく、乗客用のターミナルはあるものの、コンテナバースはなく、荷揚げしたものを収納するスペースもなかったから、7,000トン(後にもっと大型、1万トンクラスになったが…)の貨客船が一隻横付けできるだけだった。フェリーだけが主な足の時代が長く続いていた。
その桟橋の根元の一等地に、バル『エストレージャ』(Estrella;星)があった。持ち主のパコ(Paco)は50歳前後のハゲの小男で、奥さんと息子の3人で切り盛りしていた。場所が良いだけに、座り心地のよい椅子にテーブルクロスを掛けたテーブル、パラソルなどを置けば、ファッショナブルなカフェテリアに変えることが簡単にできるのに、頑丈一点張りの鉄のフレームに硬い木を貼り付けた椅子を桟橋側に並べただけだった。バルの内装も無愛想を絵に描いたもので、スペインの田舎町によくあるガランとしたホールに同じ椅子、テーブルを並べて置いただけで、奥にあるカウンターの内側にパコががんばっているのだった。
当時の典型的なスペイン・バルの殺風景なカウンター(参考)
いつも満席だったBar Tangoのテラス席
バル『エストレージャ』の隣が裁縫用品店で、その向こう隣が乾物屋だった時代を知っている。ある年、乾物屋はドイツ人が買い取り、イビサの港で一番ファッショナブルな『バー・タンゴ』(Bar Tango)になったのを見てきた。洋品店は何十種類のイタリア風アイスクリームを売る、流行のジェラート屋になった。
夕暮れ時になると、この一帯は夜店、屋台が並び、常設のカーニバルになる。だが、『エストレージャ』はその時間になると店を閉めるのだ。もっとも、朝は船の到着に合わせ早くから開いているのだが、一番の書き入れ時の夕方から夜にかけて店を閉めなくても良いではないか…と思うのが普通だろう。誰か人を使って店を開けることもできるだろ…と思うのだ。だが、パコおじさんは、そんな雑音に耳を傾けず、もう何十年と続けてきた遣り方で、昔ながらのスペイン的バルをやり続けているのだった。
イビサの目抜き通りのバラ・デル・レイ(Vara de Rey)に不動産屋を構えるアンヘルに何かのついでに『エストレージャ』のことを訊いたことがある。アンヘルは、「あそこを買いたいと言ってきたヤツは何十人もいるさ、この前はアラブ人がサインした小切手を出して、金額、数字だけ入れろ…と、オッファーしたが、エストレージャのオヤジ、見向きもしなかったんだぞ」と言うのだ。さもアリナン、「パコ、がんばれ!」と檄を飛ばしたくなったことだ。
『エストレージャ』には固定客が結構いた。と言っても、コーヒー一杯、ビールの小瓶、コニャック一杯で長時間居続ける客たちで、彼らは決してファッショナブルな『カフェ・モンテソル』(Café Montesol)に寄り付かない地元の人間か、どういう理由からかアメリカ人を中心とした、ヒッピー崩れの芸術家たちだった。
Cafe's Ibizaのパッケージ
私は旧市街の市場に行く度に、2、3回に一度は『エストレージャ』でカフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)を摂るのを習慣にしていた。グルメでない私にでもはっきりと判るほど、おいしいコーヒーを出すのだ。息子のパコ(親父さんと同じ名前、スペインではよく息子に父親と同じ名前を付ける)が、『エストレージャ』と背中合わせになっている小さな“カフェイビサ”(CAFE's IBIZA)のコーヒー豆ロースト工場、と言ってもドラム缶状のローストマシンが2台あるだけだが、毎朝、フレッシュなコーヒーを買いに走り、使い切ると、また買いに行くことを繰り返しているのだ。
おそらくイビサの80%以上のバル、カフェテリアは同じ“カフェイビサ”ブランドのコーヒー豆を使っているのだが、ただ違いは、『エストレージャ』では買い置きをしないことと、エスプレッソに掛ける直前にコーヒーを挽くことだろうか…。ともかく、香り豊かな美味しいコーヒーを出すのだ。息子パコ、イワク、「後ろに専門の焙煎所を持っているようなもんだよ…」。
そこにいつも根が生えたようにロスト・ジェネレーションの落とし子作家、スティーヴが居座っていた。夏でもウンコ色の外套を着て、クシャクシャの白髪が勝った頭髪、毛穴のすべてからアルコール臭が放出しているような赤ら顔で、存在感がある顔付きと言えなくもないが、アル中で高血圧であることが見て取れた。時折、彼の仲間らしき人間が同席していたが、互いに沈黙を決め、会話しているのを見たことがない。ピーター・キングスリー(Peter Kingsley;英国作家)やクリフォード・アーヴィング(Clifford Irving;米国作家)の顔も見えた。
もう一人、私が見知っている人物ニーナ・シモン(Nina Simone;米国ジャズ・ボーカリスト)のバックでドラムを叩いている、ハッキリと思い出せないのだが、たしかケニー(Kenny Clarke?)という名だったと思う…がいた。私は彼を(もちろん、彼女、ニーナ・シモンが主体だが…)をロンドンに行く時の楽しみにしていたジャズ・クラブ『ロニー・スコッツ』(Ronnie Scott's)での演奏を何度も聴きに行き、見知っていた。
ケニーはいつもドラムスティックを手から離さず、半分ラリって、飛んでいるような男だった。彼とは数度言葉を交わした。『カサ・デ・バンブー』にまで足を伸ばして来てくれたところをみると、たぶん私が誘ったのだろう、何度も来てくれた。彼は極端な菜食主義者で、お金の取りようのない白いご飯に野菜炒め一本槍で、しかもスザマシイばかりにそこら中にこぼし、食い散らかすのだった。その間、上手に使う箸とドラムスティックの両方で、テーブルや茶碗を叩き、ヤオラ、五線譜を取り出し、何やら曲想が浮かんだのか、脇目も振らず五線紙に書き込んでいた。その彼が毎朝、『エストレージャ』でコーヒーを飲んでいた。
他は、船待ちの客、出迎えの人たちで、船が出てしまうと、『エストレージャ』には常連だけがポツリポツリと席を占めるだけになるのだった。
私は父親の方のパコとは、親しく話したことがなかった。『エストレージャ』に行けば、「どうだ、お前のショーバイはうまく行っているか?」と必ず尋ねてくれるが、話らしい話を交わしたことがない。息子の方のパコは、ウエイターをやっていた関係上、テーブルに着いた私と話す機会が多かった。それにしても友達の感覚はなかった。彼らが『カサ・デ・バンブー』に来たこともなかった。ただ、ホステレリア(hostelería;接客業)をやっている同業者としての共同意識しかなかった。
それがある日、『エストレージャ』に行ったところ、親父のパコが、「桟橋のターミナルの中にあるカフェテリアをやってみる気はないか? 必要なことは全部私が教える。ターミナル内のカフェテリアは遣り方次第で、とても儲かるぞ…」と、まじめな調子で申し出たのだ。これには正直驚いた。
桟橋ターミナルはポート・オーソリティ(港湾委員会)の管轄だから、余程のコネのあるイビセンコでもない限り、リースしたくてもできるものではない。余所者が割り込めるロケーションではないのだ。
自分でそんな本格的なカフェテリアを年中通してやるつもりがないことが、初めから分かってはいたが、一応、ターミナルビル(と言っても2階建てに過ぎないが)を見に行った。なるほど、スペースは相当広く、2階の窓から港と城砦が一望の元に目に飛び込んでくるところで、これなら船の客だけでなく、人を呼べる…と算段したが、親父のパコには丁寧に断った。今もって、どうしてこんなオイシイ話を親父パコが私に持ってきたのか分からない。
ある時、息子パコに、この店を、『モンテソル』や『タンゴ』のように、大いに賑わうバルにしないのか訊いたことがある。彼は、「そう考えたこともあるけど、ウチの親父が何十年もこの遣り方でやってきたのだから、俺も、このまま続けることになるんだろうな…」と、言うのだった。
そうだよ、パコ親父、パコ息子、ドイツ人やアラブ人に店を売るなよ、今の遣り方でイイのだ。
第134回:『ガリンド精肉店』のこと
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