第107回:パコのチリンギート
『カサ・デ・バンブー』は30~40メートルばかりの小高い岩の上に建っていた。張り出したテラスの南側は全面地中海を見下ろし、西にはデンボッサ海岸、水平線に張り付くように細長い半島が伸び、それを回るとサリーナス(塩田)のビーチになる。その半島とわずかな距離を置いて離れている平らなフォルメンテーラ島が見えるのだった。
朝日は城砦のある岩山から昇る。城砦がそびえている岩の下、『カサ・デ・バンブー』と湾を挟んだ東の対岸にパコのチリンギート(chiringuito)があった。チリンギートは、スペインで海岸や田舎町の外れにある掘っ建て小屋のバールを意味する。『カサ・デ・バンブー』が海を見下ろす高台にあるのとは対照的にパコの店は波打ち際にあった。潮汐差の少ない地中海ならではのことだ。建物といっても、パコ自身がコンクリートを打ち、柱を立て、日陰を作っただけのもので、とても浜辺の小屋とも呼べない代物だった。
波打ち際に建つパコのチリンギート(クリックで拡大)
“Chiringuito de Paco”(クリックで拡大)
パコはアンダルシアからやって来た出稼ぎ組で、建設機材などを運ぶ大型のトラックを持っていた。そこで解体した家やアパートなどから廃材を運び込み、建設業が暇になる夏場にコツコツと浜辺の小屋を建て、そこでビール、ワイン、スナック、軽食類を売っていた。
もちろん、電気・水道・下水設備のない違法な建物で、営業許可など全く持たずに飲み物や食べ物を売っていた。お役所巡りをして、大家のゴメスさんのコネを最大限に使わせて貰い、ようよう『カサ・デ・バンブー』を開いた自分がアホに見えたことだ。
『カサ・デ・バンブー』をオープンした時、一つ間違いを犯した。パコを招待するのをコロッと忘れていたのだ。パコのチリンギートと『カサ・デ・バンブー』は同業であるとはいえ、全く性質、内容が違うし、競争相手にならない、むしろこのロスモリーノスのビーチに人を呼ぶために相乗効果があり、共存共栄できると思っていた。だから私は、パコのチリンギートを競争相手と想像したこともなかった。『カサ・デ・バンブー』にやって来るドイツ人、北欧、イギリス人などは、パコの店に足を踏み入れたことすらないと思う。
でも、パコは違う意見を持っているようだった。“どこからともなくイビサにやってきた東洋人が、あんなところにカフェテリアを開き、おかげで俺の商売は上がったりだ…”と、とっている様子がアリアリと伺えた。
私は誰かれなく気楽に挨拶をする傾向があり、人とすれ違う時に、目を逸らせ黙って行き交うことをまずしない。と言って、立ち止まり、長話しをすることもしないが、ともかく何となく見覚えのある顔に出会ったら、反射的に“オラ、ブエノス、ディアス!” (!Hola, Buenos dias!;こんにちは)」 とか、“コモ・ヴァ、ラス・コサス?”(?Como va, las cosas?;調子はどうだね?)程度の言葉を発する。
パコにも、散歩の途中、彼のチリンギートと波打ち際の間を通る時など声を掛けていた。初めのうちは、私の挨拶に釣られるように、パコも一言“ビエン、ビエン”(Bien, bien.;ヨシ、ヨシ)などと応えてくれていたが、そのうちシラーッと顔を逸らし、見ず、聞こえずの態度を取るようになったのだ。
パコのチリンギートは、年々大きく立派になっていった。張り出した日陰も広くなり、三段ほどの階段を作り、店から海に直接入れるようにしたり、電気がないので、最初はアイスボックス式の冷蔵庫というのか、断熱を施した大きな箱で飲み物を冷やしていたのを、やたらに大きな騒音を発する発電機を持ち込み、電気冷蔵庫にしたり、不揃いながらプラスティックの寝椅子を並べたりで、なかなか企業努力を怠らないのだった。
週末は家族がお手伝い
パコがいつもこちら、『カサ・デ・バンブー』を双眼鏡で監視しているぞ…と教えてくれたのは、もちろんギュンターだった。と言うことは、ギュンター自身、パコの動向を探っていたことになるのだが…。ギュンターも大家のゴメスさんも、大型の望遠鏡をテラスに設えているのだから、お互い様だ。私はそんなことを気にしない性分だが、四六時中監視されているのは、あまり気分の良いものではなかった。
『カサ・デ・バンブー』にやって来る北欧人、ドイツ人たちは、少し異常なほどパコを嫌っていた。第一、あんな汚い掘っ建て小屋はこのロスモリーノスの景観を崩す、水道がないから不潔極まりない、パコの手、爪を見たことがあるか? 爪は真っ黒だし、脂ぎった手、アリャ、少なくても3ヵ月は手を洗ったことなどないぞ、風呂はパコが生まれた時に使った産湯が初めてで、最後だったことは確実だね~と、カシマシイのだった。
スペインでは海岸線、波打ち際から確か20メートル(30メートルだったかもしれない…)は国有地で、如何なる私的な建築も許可されないことは知っていた。あるのは軍関係の建物だけだ。パコのチリンギートが、政府観光省、保健局、市の認可などの規制を逃れている秘密は軍にあった。これはすべてゴメスさんが怒りを込めて教えてくれたことなのだが…。
イビサの町からロスモリーノス海岸へ降りてくる時、最後の建物は別荘風の陸軍病院、サナトリュウム(療養所)だ。そこから先、入江までの200メートルほどの緩やかな下り坂には建物がなく、パコのチリンギートだけが波打ち際に建っているだけだ。パコの店は国有地、軍用地にあり、元ファランヘ党員のガチガチのファシストだったパコに、陸軍病院が患者の療養のため、ウォーターフロントの一等地での営業許可を与えたと言うのだ。それが、肺病やみの兵隊さんたちより、一般の海水浴客が主流になり、一旦与えた権利を取り上げることもできず、十数年営業しているとのことだった。
天が思わぬ裁断を下した。
地中海は庭の池のようなものだというのは、季節を選べばという条件付きで半分は当たっている。初冬から春先にかけて、とんでもなく荒れることがある。それぞれの地方で吹きまくる風を、レヴァンテ(Levante;西)、シロッコ(scirocco;伊)などと名付け恐れている。当然、波、ウネリも高くなり、ハリケーンのような様相を呈する。
チリンギートに襲いかかるレヴァンテの大波
パコのチリンギートを襲ったのはレヴァンテ(東からの暴風)で、海は大時化になった。パコの店の東側には10メートルの高さはある岩山が防波堤になっており、それまで相当な時化でも、その岩に当たった波が大音響を発し、波頭が砕けてパコの店まで飛沫を飛ばすことはあった。だが、その時は飛沫だけでなく大量の海水が次々と雪崩れ込み、おまけに迂回した大波が南東からもパコの店を襲ったのだ。
パコはトラックを陸軍病院の陰に止め、自分の店が波にさらわれていくのを呆然と観ていた。暴風を避けるように岩陰に座っていたパコの姿が私の脳裏に焼き付いている。レヴァンテはパコのチリンギートを跡形もなく持ち去ったのだった。
私はパコに、“また一からやり直せばいいさ、今までそうしてきたようにコツコツとチリンギートを建てていけばいいさ…、俺も手を貸すよ…”と言ってやりたかった。だが、転んでも絶対にタダでは起きないはずのパコが放心状態でいたので、声を掛けることがためらわれたのだった。
スペインもやっとフランコ独裁から議会制度に移行し、元ファランヘ党員だったコネも威光もなくなり、パコと軍の関係も弱くなったのだろうか、パコのチリンギートは二度と建てられることはなかった。
第108回:ディスコのアニマドール、アニマドーラたち
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