第443回:変わりつつある米国英語
私が引退する時、真っ先に捨てるものは時計とコンピューターです。この二つのものほど今の私の生活を縛りつけているものはありません。自業自得なのですが、大学で私自身がインターネットのコースを創設してしまい、それがアッと言う間に全過程に及び、たくさんの生徒さんがインターネットコースを取るようになってしまい、その対応が大変な時間喰い虫になり、盛大に私の自由を奪っているのです。
とは言っても、年に何度か出かける学会で発表する論文の調査には、パソコン、インターネットは欠かせない道具になっています。
Corpus of Historical American English Databaseというサイトで、1880年から2000年までに書かれた小説、新聞、雑誌の4億の単語(英語です)を即座に、使用頻度、使い方、文章の構成など統計的に知ることができます。
日本人が英語を習う時に、文法その一として、受身と関係代名詞があります。チョット、中学校の英語の授業風になってしまいますが、喜んでください。受身(be動詞+過去分詞)も関係代名詞(which,
whom, whose, thatなど)も消えつつあるのです。
ほんの50年前までジャーナリズムの文章全体の28%が受身の形を使っていましたが、今ではなんと11%しか受身で書いていません。と言うことは、すべての文章をストレートに主語+述語で書いて、それで充分間に合うどころか、立派な英語になるということです。
関係代名詞でも、which, thatはまだ健在ですが、 whoseはほとんど使いません。逆に二つの文章を繋げるときに、はっきりと文章を切ってしまえ、そして接続詞で繋げというのが最近の傾向です。ですから、試験問題によく出る、"以下の二つの文章を関係代名詞を使って繋げよ"とか、"whom,
whoseが何を指すのか"というような質問は、古い文学の中でしかあり得ない事態になっています。
完了形も消えて行っています。とりわけ過去完了形(I had heard that many times before.のような文章)などは、すでに大昔の遺物になりつつあります。1940年代には100万語の中で3.68回しか使われていなかったものが、2000年にかけてさらに減少し、2.76回しか使われていません。
完了形でも、今ではほとんど過去形で済ませています。たとえば、正統的英語では、「わたしの車が盗まれた」は、I have
had my car stolen.となりますが、こんな言い方は100歳以上のイギリス人、しかもド田舎に住んでいる人しかしないでしょう。今では、受身も過去完了形もやめて、"Somebody
stole my car"と言うのが一般的でしょう。
それが良いとか悪いとかの問題ではなく、米語、英語全体の流れがそうなっているのです。丁寧な言い方、使役の言い回しも消える運命にあります。なんでも簡略化するアメリカ英語に対し、イギリス英語は強く反発しているのですが、日常英語に大きな影響力を持つマスコミ、ジャーナリズムが米語寄りになってきている現在、また全世界に広がっていくインターネット米語の力は大きく、簡略化?しつつある米語に歯止めを掛けることができないのが現状です。
あまり簡略化が進み過ぎ、丁寧な依頼の言い方、たとえば"Would you be kind enough
to show how to get there?"と尋ねると、逆に押し付けがましく聞こえてしまうのです。私はあなたにそんなにする義理はない、私はそんな親切な心を持ち合わせていないと思うのか…とか答えたくなるのです。単純に"Could
you tell me……?"と訊いた方がはるかにスッキリします。
インターネット時代の英語は確かにストレートで簡略化し過ぎています。誰にでも明確に分かる反面文章が持つ微妙なニュアンスに欠けているのです。受身を全く使わない弊害で、いつも私、俺で始まる文章が目につき、なんだか新聞まで小学生の作文集のようなことになってきています。
私の大学でも新聞を発行しています。ジャーナリズム専攻の学生さんが主体になり、マスコミュニケーション専攻の学生、英文学専攻の学生さんたちが広告も取り、ちょっとした地方紙並みの新聞に仕上げています。
ところが、その新聞にはスポンサー、監督の先生も就いているのですが、間違いだらけなのです。隣に事務所を構えるドイツ人の先生があきれ果て、ピンク色のマジックでスペル、文法の間違っている箇所に印をつけ、私に見せにきました。
タイトルからしておかしなところがあり、目を覆いたくなるほどです。明らかに新世代の学生さん、メールやテキストをやり取りするのと同じ感覚で書いているのでしょう。それにしても、ドイツ人のドイツ語の先生に英語を直されるのは悲劇です。
米語の将来はどうなるのか、予測がつきません。果たして、新世代の人たちのメール、テキスト文章から文学が生まれるのか、俗語として会話、メール、テキストと、書き言葉として米語が両極に分けられていくものか分かりませんが、米語が携帯電話文化の中で大きく変わっていっていることは確かなようです。
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