■このほしのとりこ~あくまでも我流にフィリピンゆかば

片岡 恭子
(かたおか・きょうこ)


1968年、京都府生まれ。同志社大学文学研究科修士課程修了。同大学図書館司書として勤めた後、スペイン留学。人生が大きく狂ってさらに中南米へ。スペイン語通訳、番組コーディネーター、現地アテンド、講演会などもこなす、中南米を得意とする秘境者。下川裕治氏が編集長を務める『格安航空券&ホテルガイド』で「パッカー列伝」連載中。HP「どこやねん?グアテマラ!」




第1回:なぜかフィリピン
第2回:美しい日本がこんにちは
第3回:天国への階段(前編)
第4回:天国への階段(後編)
第5回:韓国人のハワイ
第6回:まだ終わってはいない
第7回:フィリピングルメ
第8回:台風銀座(前編)
第9回:台風銀座(後編)
第10回:他人が行かないところに行こう(前編)
第11回:他人が行かないところに行こう(後編)
第12回:セブ島はどこの国?
第13回:フィリピンの陸の上
第14回:フィリピンの海の中
第15回:パラワンの自由と不自由
第16回:男と女
第17回:道さんのこと
第18回:バタック族に会いに行く
第19回:フィリピンいやげ
第20回:世界一大きな魚に会いに行く
第21回:気長な強盗
第22回:バシランからの手紙
第23回:ドーナツ天国
第24回:マニラ浮世風呂

■更新予定日:第1木曜日

第25回:出稼ぎ大国 <最終回>

更新日2008/01/31


最近、日本航空か中国国際航空の朝一番の便で中国に飛ぶことが多い。両社ともフィリピン航空と同じ第2ターミナルから出ているので、中国に行くたびに大荷物をカートに載せてぞろぞろ運ぶフィリピーナの大群に出くわす。例外なく彼女たちはおみやげに日清カップヌードルのシーフード味を箱で大量に持って帰る。つい先日、ミルクシーフード味というのを持っている人を見かけた。どうも新製品らしい。カレー味や長崎ちゃんぽんを持っている人もいるがごくまれだ。大荷物の度が過ぎて超過料金を払っている人もちらほら。

香港にもシンガポールにも、彼女たちピナはたくさんいる。日曜日の繁華街で大きな紙袋を手にいくつもぶらさげて、大声で中国語でも英語でもない言葉をしゃべっている女性のグループがいたら、それはピナである。もちろん彼女たちは観光客ではない。家政婦やベビーシッターとして出稼ぎに来ているのだ。ハウスキーパーとしてなら、労働ビザさえも必要ないらしい。インドネシア人の出稼ぎもいるが、フィリピン人のほうが断然多い。

日本でもよくピナを見かける。赤坂界隈では働いている姿を見る。ホステスではない。白人の小さな子供を連れて散歩をしている。大使館が多いエリアなので、大使館員の子供たちのベビーシッターをしているのだ。休日にピナを見かけるのは、フリーマーケット会場。たどたどしい日本語でえげつない値切り方をしている。おまけにこれでもかというほど、両手いっぱいに荷物を抱えている。

物価の高い日本の中で相場のあってないようなフリマとはいえ、そこまで買うかとあきれる使いっぷり。どう考えても、彼女たちは宵越しの金は持ってなさそうだ。送金したら残りはぱーっと使ってしまうのだろう。せっかく出稼ぎに来てるんだから、ちょっとは貯金しろよと他人事ながら思わぬでもない。


トゥバを売るおばあちゃん

看護士、介護士として、海を渡るフィリピン人も多い。アメリカやカナダなどの英語圏では多くのフィリピン人が現場で働いている。日本でも人手不足な職種だが、言葉の壁は厚く、しかもその壁を破って来日しても永住権がもらえるわけではない。日本語以外のハードルも高い。受け入れ条件が緩和されることがなければ、今後も日本でこの仕事に就くフィリピン人が増えることはないだろう。

男性の出稼ぎ先はもっぱら中東が多い。アラブ首長国連邦やドバイなどのオイルマネーで潤っている国々の建築作業に従事するのだ。2004年、イラクでフィリピン人のトラック運転手が武装勢力に誘拐されたときのこと。釈放の条件はフィリピン軍のイラクからの即時撤退。アロヨ大統領は少しも躊躇することなく、すぐに軍を引き上げた。

当時、イラクにいたフィリピン人労働者は4,000人。中東では100万人以上、世界全体で800万人以上が働きに出ている。アメリカの顔色をうかがうよりも、国の財政の1割を支える海外労働者の安全を確保するほうがよほど大事なのだ。

かつて、日本にも多くのフィリピン人男性が出稼ぎに来ていた。戦後すぐから1960年代までハワイアンブームの日本で、たくさんのフィリピン人バンドが活躍していたのだ。ハワイには日系人が今も多く、南米ブラジルと同様、現地で五世まで誕生している。もともとサトウキビを刈る季節労働者として広島から移住した一世が多いのだが、その後、日本人に代わる安い労働力としてハワイに渡ったのがフィリピン人なのである。そこで、フィリピン人とハワイアンが結びつき、ハワイアンバンドとして来日することになる。

ジャパゆきさんがやってくるうんと前、江戸時代の末から昭和の初めまでは、日本からからゆきさんが東南アジアをはじめ、世界各国に娼婦として渡っていた。映画化された明治時代の女衒、村岡伊平治は、香港を皮切りに中国各地、シンガポール、マレーシア、インドネシア、インド、ベトナム、ニューギニアと東南アジアを転々とした挙句、フィリピンはルソン島南部のレガスピに落ち着く。現地で遊郭経営から原木伐採、製菓業、金鉱採掘などを手がけたが、最後はマヨン火山の噴火で財産を処分して、日本へ帰ってきた。

貧しかった日本は豊かになり、日本人は季節労働者やからゆきさんとして海を渡る必要はなくなった。フィリピンはアメリカの援助があった、マルコス大統領の時代のほうが豊かだったそうだ。空港も鉄道も道路もいまだに日本の円借款やらODAで造られている。

やはり血ってあるのだなと思わずにはいられない。ブラジルでは今となっては豊かな日系人も、最初は黒人と同じ小作農だったはず。ロサンゼルスの低所得者の街サウスセントラルには黒人が多い。ユダヤ人はそこに店を開き、やがて成功して街を出ていった。次にやってきた日本人も同じように成功して街を去っていった。アフリカもフィリピンもかつてはヨーロッパの植民地。いまだに自分で創生できないのはそのせいなのだろうか。

フィリピン人よ。出稼ぎに行く前に、腎臓を売る前に、ちょっと考えてみてほしい。


マラパスクア島の子供たち

-…連載完

 

バックナンバー