第764回:目は口ほどにモノを云う
どんな相手とでも、“話をする時、聞く時は、しっかり相手の目を見なさい”と、私たちは子供の頃から教えられ、しつけられています。握手をする時には、強からず、弱からず、しっかりと握り、必ず相手の目をシカと見ろと言われ続けてきました。
ところ変われば、品(シナ)ではなく習慣も違ってくるのは当然のこととはいえ、日本では長いこと、歴史的にそうだったのでしょうか、相手の目をジーッと見つめるのは礼儀に反することのようです。
ウチのダンナさんによれば、日本の街中で誰かをジーッと見つめていると、“ガンを付けた”と絡んでくる若者、ヤクザ?が結構いるそうですね。逆に、イタリアでは男性が女性をまるで舐め回すように頭の上から爪先まで値踏みするのが、女性に対する礼儀になっているお国柄です。それをイヤラシイ目付きだと取る向きもあるでしょうし、そのおかげなのか、見られることでイタリア女性は磨きがかかり、美しくなると云う人もいますが…。
これもダンナさんの入れ知恵ですが、戦前までは、天皇の顔を直接見たら目が潰れるとまで言われ、写真(御真影と言わなければならないのかしら)だけで、その様相、容姿を知ることができた人、直接天皇を見た人は極めて少なかったのではないか…と言っています。それは、江戸時代に殿様は簾の後ろにいて、しかも謁見を許された侍たちですら頭を下げ、顔を上げて殿様の方見るなどは問題外だったのと同じ感覚でしょうね。
しかし、これらの伝統的習慣は身分の差が異常に明確で、尊重しなければならない社会でのことで、江戸時代に、町人同士または同郷のお侍さんが町中でバッタリ出会った場合などはどういう視線を交わしていたのかしら。こんな場合でも、相手の目をジーッと見つめず、視線を宙に浮かしていたのかしら。ちょっと不思議、不自然な感じがします。
相手の目を見るのは一種の挑戦と受け取られることは、有名なジェーン・グドール(Jane Goodall)さんのゴリラ、チンパンジーの研究で知りました。森でゴリラに出会っても、ゴリラをジーッと見つめるようなことは、相手が“何で俺様にガンを付けたんだ”と怒り、迫ってくることがあるのだそうです。何だか、日本の粋がっている若者やヤクザはゴリラの直系卑属のように思えます。
文明改革というのは、観たいものを自由に観る、相手の目を食い入るように見るのが自然に行われることに始まるのではないかという気さえします。今でも日本人同士、あまりジロジロ見つめ合わないようです。何だか不躾な作法と取られるのでしょうね。
その中で、子供たちは“ニラメッコしましょ…” と、目を逸らしたり、噴き出したりしたら負け、という遊びが生まれたのかもしれません。ニラメッコは一種の見つめ合うトレーニングだったのでしょうね。
日本の偉いさん、政治家や商社の方々が、西欧の人と握手をする時、日本的につい頭を下げる情景がよく見られます。習慣の問題とはいえ、あれはいかにも逃げ腰と見られるうえ、見苦しく写ります。
最近、柔道や空手が国際的なスポーツになり、試合の前、勝負が着いた後に日本的な礼をします。近頃では外国人(日本や東洋以外の)選手も頭を下げる礼にぎこちなさが取れ、ごく自然に腰を折、頭を下げるようになりました。
古今東西、恋愛小説などでは、ウンザリするくらい体や顔の他の部分はともかく、目の美しさ、深い眼差し、蠱惑的な視線が登場します。確かに流し目の綺麗な人、上手な女性はいるものです。また、グンと睨みの効く目を持った男性もいます。一目惚れは多分に心理的情景でしょうが、あの目に惚れた、吸いつけられたというハナシは未だによく耳にします。映画は作りごとの世界ですが、男女の出合いにまず目と目が会い、火花とまではいかなくても、それだけで、ああ、この二人は恋に落ちると分かってしまいます。
恋愛だけでなく、人間関係でアイコンタクトというのは余程大事なことだと…、アメリカの社会、西欧では思われています。
このコラムを読んでくださる皆さんも、通勤電車の中で、街ゆく時に、これぞと思う男女をジーーーッと見つめてはどうでしょうか。案外目は口ほどにモノを言い、新たな人間関係が巣立つかもしれませんよ。但し、悪い相手を見つめ過ぎて、ガンを付けたと絡まれても責任は負いませんが…。
-…つづく
第765回: アメリカの銃と暴力文化
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