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■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から
 

第755回:ジェシカさんのこと

更新日2022/05/19


ジェシカさんは私の生徒さんでした。教室では、恥ずかしがり屋でおとなしい目立たない生徒でした。でも、クラスで一番のがんばり屋で、レポート、予習、復習をいつもきちんと、しかも他の生徒さんの何倍もの量をやってくるのです。教室の中で簡単な発表をする時にも、ジェシカさんはその準備に膨大な時間を費やしていることが分かります。それに、すべて親が面倒をみている最近の学生さんの中では珍しく、アルバイトをして、自分の学費、生活費の足しにして大学に通っていました。

教室ではいつもボーイフレンドのクリント君と並んで教壇の正面に座って、私の一言一句を聞き逃すまいとばかり、真剣な表情で授業を受けていました。クリント君は一種の天才的な頭脳の持ち主で、理解も反応も素早く、とてもデキルタイプでした。二人は高校時代からのスイートハートで8年越しだと後で知りました。

 

そんなジェシカさんが、アルバイト先のコンビニのような店舗で殺されてから2年経ちました。犯人はすぐに逮捕され、先週、裁判所で判決の言い渡しがあるというので、傍聴に行ってきました。

裁判は陪審員なしでした。というのは、“プレ・バーゲン”と呼ばれる、犯人が罪を認め、判決を受け入れる、その代わり、刑が軽くなるというコロラド州の法律に沿って、一級殺人(終身刑で恩赦なし)から二級殺人(52年の刑、恩赦の可能性を残す)として判決が下されていたからです。コロラド州に死刑はありません。

ジェシカさんが殺された時、2020年の冬、私たちはスキー場近くにアパートを借りて暮らしていました。事件の概要は、地元のニュース、ジェシカさんの同級生からのメール、そして判決言い渡し前の事件の概要で詳しく知ることができました。

犯人はジェシカさんが一人で店の番をしているのを見て、その周りを何度か回り、観察し、ここを襲うのは簡単だと判断し、そこから歩いて200~300メートルの距離にある大きなスーパーマーケット“ウォルマート”へ行き、ナイフを買っています。そのナイフでジェシカさんを刺し殺したのです。そして、盗んだお金はたったの150ドルでした。

わざわざ刺し殺さなくても、脅すだけ、あるいはパンチでも食らわすだけで、そんな小額のお金を奪うことができたのではないかと誰しも思うところです。犯人は顔を覚えられ、警察に訴えられるのを一番恐れていたのでしょう。

犯人は20代前半の痩せた青年で、オレンジ色の囚人服に映画で観るように、足と胴、手首を鎖で繋がれた状態で被告席に弁護士(おそらく国選弁護人でしょう)と並んで座っていました。

いったい彼は何という人生を送ってきたのでしょう。彼は13歳で窃盗を働き、少年刑務所を何度も出入りし、16歳から18歳までの2年間を少年刑務所で過ごしているだけでなく、18歳でそこを出て、その足で車を盗んで捕まり、麻薬(彼の場合はメタンフェタミンですが)にどっぷり浸かり、それを買うために泥棒を繰り返していたのです。

彼の母親が相当酷いアル中か麻薬常用者だったのでしょう、ソーシャルワーカーがこんな母親と一緒に暮らしていては彼の人生がダメになると、彼を母親の元から引き離し、里親(Foster parents, Foster Homeと呼ぶ、孤児や問題の多い家庭の子を養子のように短期間預かり、世話をするシステム)に出しているのです。実の母親は裁判に来ませんでしたが、この里親の方は二度とも出席していましたので、私はこの里親夫婦と言葉を交わしたことがあります。彼を更正できなかったことに深く傷ついている風でした。

州の法律で、犠牲者の権利として、最終裁判で、判決が言い渡される前に、犠牲者の親族、友人、犯人サイドもですが、弁論というのでしょうか、傍聴人にあるいは犯人に話すことが許され、それが裁判の記録に残ります。

スピーチをしたのは、ジェシカさんサイドで6人いました。皆が怒りと悲しみに体の芯を揺さぶられるような、それでいてとても冷静に話していました。ジェシカさんの母親は、ジェシカさんの思い出が漂うこの町にいられなくて他の町に移っていたので、この席にはいませんでした。

そして、ジェシカさんを亡くしただけでなく、両親、姉妹、そして8年越しのボーイフレンドのクリント君、2年経った今でもジェシカさんの死を受け入れることができず、精神に大きなダメージを抱えて生きていることを知りました。クリント君は何度も自殺を考え、仕事に集中できず、転職を繰り返しています。彼ほど優秀なら、そのまま大学に残り、教授職にでも就ける能力が十分あると思っていたのですが…。

傍聴に来ていた人たち、2時間ほどのそのスピーチの間、私も含め泣きっぱなしでした。このスピーチは記録に残すだけでなく、出版する価値があると思わせるほど、立派ものでした。

犯人はジェシカさんを殺しただけでなく、彼女を囲む多くの人の人生をも壊してしまったのです。

裁判官は最後に殺人犯にも話すチャンスを与えました。が、彼はただ無表情に“NO”と言っただけでした。

私は日本語の授業で、地味で恥ずかしがりのジェシカさんにオンブスマン的(授業の監視役)な役割を頼んでいました。ついつい日本語の授業なのに英語で説明をしてしまいがちな私に、いつでも注意を促す役を与えていたのです。
「先生、また英語ばかりで説明していますよ、日本語でお願いします」と、ジェシカさんの静かな声がいまだに聞こえてきます。

-…つづく 

 

 

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Grace Joy
(グレース・ジョイ)
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中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。

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