やながわ希望の森公園駅は切通しに作られた駅だ。晴天だがホームは日陰になっていて肌寒い。階段を上がって駅舎に入ると、待合室に立ち食い蕎麦屋が併設されていた。数個のテーブルのうちひとつを地元の少年たちが占めており、蕎麦屋のおばさんと喋っている。私が改札口を通ったときに視線を浴びせた人々である。彼らは中年太りの男に興味はないらしく、すぐに自分たちの話題に戻った。久しぶりに感じるよそ者扱いだった。弁当を買わずともここで昼食ができたようだ。しかし、かなり居心地の悪い思いをしただろう。
駅舎の出入り口は自動扉だ。寒いところであり、それなりに利用者が多いことを教えてくれる。外にバイクが3台。縦方向に長いハンドルが背もたれと高さを競っていた。要するにこの駅は、当てもなく走り回る若者たちがスナック代わりにしているというわけだ。
私は駅舎を背にして辺りを見渡し、駅名の由来ともなった公園へ向かった。線路を橋で越えると20台ほど停められそうな駐車場がある。その突き当たりに『SLのりば』があった。SLの運行は4月からで、2月のいまはシーズンオフである。駅は封鎖されていた。小さなホームの向こうに機関庫らしき建物があり、その先には小さな転車台もある。そのスイッチは収穫前のリンゴのように袋に包まれており、丁寧に管理されている。小さいながらも本格的な遊覧鉄道のようだ。
ミニSLの格納庫。
再び橋を渡り、駅の入り口を曲がらずにまっすぐ歩く。歴史に興味はないけれど梁川城址を見物したい。出かける前に見た地図を思い出して歩いてみるが、どこにあるか見当もつかない。パンフレットの地図も簡易すぎる。旅先での迷い歩きも楽しいけれど、次の列車には乗りたい。
人通りの少ない住宅街で、やっと現れたジャージ姿の老人に道を尋ねた。彼は、「城ねぇ……」と考えはじめ、30秒ほど時間を置いて、「よし、わかった」と声を上げてから説明してくれた。思い出しにくいか、なにか決心しないと教えられない場所らしい。
指図されたとおりに歩くと、説明どおりに小さな神社があって、そこを通り抜けると池がある。その池が梁川城の庭園の跡と聞いた。そこは小学校の校舎の裏手にあたり、数人の子供たちが遊んでいたので、「ここが城の跡かな?」と聞いてみた。誰も何も言わない。「学校で習わなかったかい」と私は言った。子供たちは小学校の高学年のようだし、私が彼らの年のころは社会科で郷土についてひと通り学んでいた。最近の学校はそういうことを教えないのだろうか。
子供たちの側を通り抜けると、そこには学校には不釣合いな日本庭園と石垣があった。これに違いないと眺めていると、後ろの方で、「ここに書いてある」と誰かが言った。私と目を合わせないから、私に言ったのではないようだ。きっと友達に教えたのだろう。そこには梁川城址の説明書きがあった。
梁川城は鎌倉時代に築かれ、伊達家第九代の伊達政宗の本城として使われた可能性があると書いてある。この伊達政宗は第十七代仙台藩主ではなく、その祖先のほうである。仙台藩主の伊達政宗は第九代にあやかって同じ名を使った。その後伊達稙宗が陸奥国守護になると奥州の政治的中枢になったという。その後廃城とされ、明治32年に梁川小学校が本丸跡に移転してくる。第二次大戦後は中学、高校も建てられて、城跡の景観は変わってしまった。
梁川城址。
そこまで読んで、私は先ほどの老人の態度に納得した。城址といえば観光目的で余所者が訪れる場所である。しかし、ここは学校であり、防犯上の観点からは誰でも気安く入れるという状態は望ましくない。学校に不届き者が侵入し子供が被害に遭う事件が起きる時代である。そんなとき、地元の学校にカメラを持った中年男を案内すべきか否か。それを老人は勘案したに違いなかった。さりとて今日は日曜日であるし、小心者らしき人なら問題なかろう。だから老人は、「よし、わかった!」と自分を納得させる必要があった。パンフレットの地図が不明確な理由も、もろ手で歓迎できない事情を物語っている。
駅に戻るとバイクの若者たちはまだ蕎麦屋に居た。まるでスナックに入り浸る定年前のやさぐれ男たちのようで、彼らの姿からはその程度の未来しか予想できなかった。私は終点の槻木駅までの切符を買い、発車まで数分あるにもかかわらずホームへの階段を下りた。日が傾き寒さが増しているが、駅舎内には身の置き所がなさそうだった。
ホームには小さなベンチと風除けがあった。しかし寒さを和らげるほどではない。暖かい缶コーヒーでも買ってくるべきだった。コートのポケットに手を突っ込み、列車の来る方向を見つめる。遠くから2両編成の電車がやってきたときの嬉しさは、鉄道好きのそれとは違った。
ここから阿武隈急行の後半になる。私はまず進行方向左側に座った。富野を過ぎてしばらく走ると阿武隈川が姿を見せる。瀬上では橋で渡ってそれきりだったけれど、ここからは線路が川に沿っている。この辺りからが阿武隈急行らしい車窓風景と言えるだろう。兜を出ると電車は加速し、かなりのスピードで小さなトンネルを抜ける。少し川が遠ざかり、今度は長いトンネルに入った。ここから宮城県である。傍らの阿武隈川が下り続けていくので、この山は分水嶺ではない。しかし人の流れは分けている。阿武隈急行は福島側は富野、宮城側は丸森で折り返す列車がある。このトンネルを通る列車は全列車のうち半分ほどだ。そのトンネルを抜けると阿武隈川が寄り添ってくる。
阿武隈川は日なたと日陰で表情が変わる。
宮城県側の最初の駅はあぶくまである。日陰の立地のせいで地面に雪が残っている。阿武隈ライン下りの乗船場があり、「農産物直売所」「ラーメン」と書かれた幟がいくつも立っているけれど、シーズンオフなので人の姿がなかった。阿武隈急行の訪問は夏の第一日曜日がよさそうだ。フリーきっぷがあるし、公園のSLも走るし、ライン下りもできる。トロッコ列車を走らせたくなるような路線である。
鉄橋で線路と川の位置が交代する。空いているので私も右側の席に移動した。やがて川を離れ、丸森に着く。国鉄丸森線時代の終着駅である。私にとっては25年ぶりの訪問だが、当時の様子を覚えていない。ホームから線路に降りて平屋の駅舎に行く。この動線は国鉄時代の駅の名残だろう。いや、もしかしたら私は駅を出ずに引き返したのかもしれなかった。あの頃は鉄道以外に興味がなかった。
電車は仙台平野の仙南地域をひた走る。車窓の最後のトピックは南角田を過ぎると右の車窓に現れる。小さな山の向こうに見え隠れする白い物体はH2型ロケットのレプリカだ。角田には宇宙推進技術センターがあり、ロケットエンジンなどを研究している。研究所自体も年2回ほど一般公開されているが、常設展示施設として、角田駅に近い台山公園にロケットのレプリカとタワー型展示施設がある。
阿武隈急行沿線は電車だけではなく、SL、川下り船、ロケットと、様々な乗り物に出会える。しかし私は電車だけで充分に満足した。鉄道以外に興味を持たない傾向は、25年経っても変わっていないらしい。
町の向こうにロケット。
-…つづく
第235回以降の行程図
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