赤迫電停に妙な貼り紙がある。
「3号系統(蛍茶屋発 桜町経由 赤迫行き)は運休となります。代わりに2号系統(蛍茶屋発 大波止経由 赤迫行き)を運行致しております。大変ご迷惑をおかけしておりますがご了承願います」
3号系統は蛍茶屋から桜町線を経由し、長崎駅前で右折して本線に合流するルートだ。2号系統は蛍茶屋からすぐに本線に入り、長崎駅前を直進して赤迫に至る。2号系統は運行を休止していたルートであるらしく、長崎電気軌道のWebサイトや案内看板では欠番となっている。3号系統と2号系統の違いは"桜町線経由か本線経由か"であるから、何らかの事情で桜町線が不通になったと推理できる。そうなると全線乗車という私の目論見は果たせない。
長崎電気軌道 路線図。
この貼り紙には続きがあって、「尚、赤迫発 蛍茶屋行きは平常通り運行いたします」とある。電車を見れば確かに3号系統の蛍茶屋行きが走っている。つまり、行きが3号系統、帰りが2号系統という変則的な運用である。どうしてそうなるのか、さっぱりわからない。でも、蛍茶屋行きに乗れば桜町線に乗れると判って安心した。
長崎駅前への戻り道。新型LRT車と出会う。
3号系統の蛍茶屋行きに乗った。長崎駅前までの路面を戻り、運転台の後ろに立って前方を眺める。すれ違う電車がどんどんやってくる。長崎電気軌道の電車は様々な形をしている。全国の路面電車が廃止されるたびに状態の良い車体を買い付けているからだ。熊本市電、仙台市電、東京都電、小田原市内線、西鉄市内線からの電車が当時の姿のまま走っている。老朽化した車両は床下を残して車体だけ新しく乗せ替えたものもあり、広告塗装も行われているため、同じ車体はひとつもなさそうである。そんな状態だから、走る電車博物館などと呼ばれている。すれ違う電車はどれも個性的だ。私が乗った電車は直線的なデザインだが、走り出すと"うぉぉん"と古い電車の音がする。
長崎駅前を出ると電車は左折して桜町線に入った。幅広の路面区間である。自動車も少なく走行は順調だ。長崎中央郵便局を過ぎ、長崎市役所が見えると桜町電停である。そばに長崎放送の社屋もあって、ここは官庁街であるらしい。しかし、先の貼り紙通り、逆方向の電車は来ない。重要な路線のはずで、まさか採算が合わないという理由ではないと思う。なぜ長崎駅へ向かう電車を走らせないのだろう。
長崎駅前。左が桜町線。右が本線。
桜町を出ると路面電車には珍しく長いトンネルがある。正確には道路と交差するアンダーパスで、上には駐輪場や公園もあるようだ。再び日なたを走り始めると前方に公民館前電停が見える。そこでようやく謎が解けた。隣の線路に工事用トラックが停車している。線路の補修作業を行っているらしい。なるほど、それで長崎駅方面の線路が使えず、片方向だけ2号系統に迂回する処置をしているのだ。
いや、補修にしては妙な雰囲気だ。なぜか警官が立ち会ってノートを参照している。このとき私は事情がわからなかったが、実はこれは現場検証であった。前日に路面電車が脱線事故を起こしており、原因が特定できるまで運行を停止していた。これが2号系統復活の真相であった。2号系統の表示は珍しく、貴重な機会に遭遇したと思う。
私がこの事情を知ったのは旅から帰ったあとで、しかもその後、長崎電気軌道が長期にわたって自動車との接触事故などを当局に隠していたことが発覚する。経営努力で低運賃を維持した長崎電気鉄道は路面電車の優等生的な存在だ。昨今の路面電車見直しの風潮もあって、LRTタイプの新型車を導入したばかり。それだけに不祥事は残念だ。企業の不祥事に厳しい世の中である。電力や放送のように公共性が高い企業が不祥事を起こしても営業停止にはならない。そういう理不尽も世の中にはある。では、鉄道はどうなのか。謹慎を許されず、批判に耐えて営業を続けよ、と請われる存在だろうか。京福電鉄の営業停止の事例もあるし、つまらない理由で営業停止や廃止になりはしないかと心配になってしまう。
公民館前電停は現場検証中。
公会堂前電停の先は交差点になっており、蛍茶屋支線が横切っている。桜町支線はここが終点で、線路は蛍茶屋支線の両方向へとY字型に分岐する。私が乗っている電車は蛍茶屋行きだから、この分岐を左へ進むことになる。ここで私は積年の疑問が解決できた。それは、「路面電車のポイントは誰が操作しているのか」である。いろいろなやり方があるだろうが、長崎電軌の答えは運転士であった。
仕組みはこうだ。まず、電車が進んで定められた地点に一時停止する。ここでセンサーが作動し、信号機のそばに設置された方向指示ランプが点滅する。この方向指示ランプは左と右の矢印がひとつずつあり、ちょう踏み切り警報機のように交互に点滅する。点滅の切り替えは数秒ごとでゆっくりしたものだ。左に行きたい電車は左のランプが点っている間に前進、右に行きたい電車は右ランプで前進。これで転轍機のスイッチが入り、行きたい方向へ分機器が作動する。ゆっくりしているとはいえタイミングが勝負である。これで納得したけれど、間違ったらどうするのだろうか。バックしてやり直すわけには行かないと思う。やはり観察と実際の仕組みは違うのかもしれない。
ポイント切替用表示機。下段がタイムゲージ。
電車は賑やかな地域を通り抜け、新長崎街道を右折して東に進む。広い道で、道路が片側に2車線。中央に路面電車の複線がある。つまり6車線分の幅員だ。道が広いと街並みにゆとりがある。空は広いし、脇に高層マンションが建っても窮屈な感じがしない。この辺りは海岸から離れており、当時は海を見渡す丘の入り口という立地だったのだろう。日本に西洋医学を伝えたシーボルトの館もこの近くにある。スパイ容疑で捉えられ、日本を追われたシーボルトであったが、彼は長崎を愛し、長崎の人々も彼を好ましく思っていた。長崎市は市の花を紫陽花と定めているが、これはシーボルトが好んだ花だという。
蛍茶屋電停。
蛍茶屋の電停はひと回り大きく、電車4台が留置できる構造だ。電停の先にも線路は伸び、新長崎街道を渡ると車庫になっている。その車庫の向こうに丘が広がり、戸建ての家が立ち並んでいる。さらに奥は小さな山がある。ここは丘と平地の境目のようなところだ。街道筋の蛍茶屋。出島より距離のあるこの辺りに邸を建てたシーボルトは、全国から来訪する医師たちに西洋医学を教えたといわれている。長崎といえば港、港といえば海だ。しかし鎖国の頃、陸路で長崎に入るとしたら、きっとここが入り口だったに違いない。
蛍茶屋電停より車庫方向を望む。
-…つづく
第212回以降の行程図
212koutei.jpg