須坂はさきほど『ゆけむり』同士の交換を見た駅である。ここには車庫があり、長野線と屋代線の分岐点でもある。次の屋代線に乗り換える待ち時間は15分あるので、しばらくホームから車庫にいる電車たちを見物した。朝と夕方に運行されるB特急用の電車がふたつあって、片方はロマンスカーと同じ赤とクリーム色、もう片方はこげ茶色一色に塗られていた。これは登場当時の姿を再現したようだ。
屋代線のまっこうくじら。
16時19分発の屋代行きは"まっこうくじら"の2両編成だ。かつては六本木、日比谷、秋葉原、上野を闊歩したシティボーイである。ローカル私鉄らしくない力強い加速で走り出す。乗客は2両合わせて40人ほどだろうか。土曜の夕方にしては上出来かもしれない。最初の停車駅は井上。上信越自動車道をくぐって綿内。ローカル私鉄にしては建物が多く、比較的新しい建売住宅が並んでいる。リンゴ畑も目立つ。リンゴの木は畑とは呼べないほどの狭い場所にも生えている。東京の住宅地ではなんとなく桜を植えるけれど、こちらでは土地に隙間があればリンゴを植える風習があるのだろうか。隙間の土地から収穫されるリンゴは出荷されるのか。自家用か。それとも税金対策の都合で農地にしておきたいのだろうか。とにかくリンゴの木ばかりである。
日暮れが近づいている。
長野電鉄屋代線は須坂と屋代を結ぶ路線だ。屋代でしなの鉄道と接続する。長野線は33.2キロで堂々たる本線だが、支線格の屋代線も24.4キロある。列車はすべて各駅停車だが、1962年から1982年まで、しなの鉄道が信越本線だった頃は、上野発の急行列車が屋代線に乗り入れて湯田中へ向かった。リンゴなどの貨物輸送もあり、この頃が屋代線の黄金時代だったかもしれない。地図上では屋代から湯田中までがほぼ直線の本線で、須坂から長野までが支線に見える。
綿内駅のホームに「北野美術館まで徒歩15分」という看板があった。次の若穂にも「北野美術館まで徒歩10分」とある。長野県最大の建設会社の社長さんが集めた絵画を公開する施設で、ルノワールやシャガールもあるという。小布施にも美術館があった。長野電鉄と美術館の組み合わせは観光誘客の良い組み合わせかもしれない。しかし両駅で降りる客は少なく、次の信濃川田でごっそり降りていった。ここで対向列車とすれ違う。あちらもかなり人が乗っている。時刻は16時30分。学生や主婦がそろそろ家路に着く頃である。
屋代線は千曲川に平行している。しかし車窓に千曲川は姿を見せない。大室駅付近がもっとも川に近いけれど、高い堤防しか見えない。地図上の千曲川の蛇行ぶりを見る限り、このあたりはかなり水害に悩まされたようだ。その暴れ川も穏やかなときは渡河に適しているようで、ここは川中島の合戦の舞台である。次の金井山が第4次川中島合戦場の最寄り駅。近くに武田信玄の軍師だった山本勘助の墓がある。さらに一時間ほど歩くと山本勘助が討ち死にした所があり史跡公園になっている。私は歴史に興味が薄いので素通りである。
風格のある松代駅。
千曲川を離れ、上信越自動車道をくぐりぬける。農協の倉庫らしき建物があって「エノキダケ発祥の地」の看板が立っている。鍋物に欠かせない、白くて細いキノコだ。こんな発見があるから車窓ウォッチングは楽しい。エノキダケがここで作られわけではなく、日本で初めて農業として栽培されたところである。野生のエノキダケは傘が広く色も濃く、かなり風味が強いという。それが栽培ものになるとどうしてあんな白く細長くなってしまうのか不思議だ。関係者に訊いてみたい気もするが、もう車窓の彼方であり、なにより今日は休日である。
この辺りは松代町といい、製糸業が盛んなところで、明治維新後の廃藩置県のときは松代県が置かれた。松代駅は小さいが風格のある駅舎があった。その駅舎の隣には池田満寿夫美術館がある。またしても美術館だ。信州は四季の色彩が豊かだから創作意欲を掻き立てるのだろうか。ちなみに池田満寿夫は満州出身で、戦後母親と長野市に移った。ニューヨークで個展を開いた最初の日本人芸術家であり「エーゲ海に捧ぐ」は絵画、小説、映画を自身で手がけた。池田満寿夫美術館の建て主は栗菓子の竹風堂だ。前述の北野美術館も建設会社が建てた。成功した会社が美術品に投資する土地柄のようだ。
松代の次は象山口。駅の南東に象山がある。太平洋戦争の末期、天皇陛下や軍の中枢機能を疎開させるため、象山に広大な地下壕を作る工事が敢行された。いわゆる松代大本営の跡地である。現在はその一部の施設が公開されているという。さらに明治時代の新劇女優、松井須磨子にゆかりの地と看板に書いてあった。長野電鉄屋代線は長野市近郊の特徴の少ないローカル線だと思っていたが、実は見所たっぷりだ。降りたい駅、立ち寄りたい施設がたくさんある。ガイドブックを作ったらかなり厚手の冊子ができそうだ。一日乗車券を買ったときに全列車の時刻表をくれたけれど、沿線ガイドもあればよかった。
電車は再び上信越自動車道をくぐり、国道403号線と並んだ。頭上の高速道路のクルマには勝てないが、"まっこうくじら"は健脚だ。国道のクルマをどんどん追い越して走る。地方のローカル鉄道にとって、クルマより早く走る姿をアピールすることはとても大事だ。のんびり走るというローカル線の風情は好きだし、ローカル線らしい好ましい姿でもある。しかし、クルマ社会と戦うローカル線こそスピードが重要だ。地方私鉄は速く走ることを真剣に考えたほうがいい。
三連窓からの景色。
岩野を出てしばらく、車窓左手は山裾である。遠くから山を見て、平地と山の境目はどうなっているのだろうと思うけれど、この車窓がまさにそれだ。平地からいきなり斜面が始まり山へと続く。この斜面は崩れないのかと思う。木がたくさん生えているので、おそらく根が鉄筋コンクリートの鉄筋のような役目をして土を支えているのだろう。私は模型はやらないが、ジオラマ工作で参考にすべき景色である。
またまた上信越自動車道をくぐる。いいかげん目障りだが腹を立てても仕方ない。雨宮を過ぎるとまた高速の橋桁だ。もう怒る気にもならない。さらに橋桁が見えたが、これは長野新幹線であった。今朝ほど通った地域であり、あと1時間後に再び通る場所である。土日きっぷの1日目だが、どこにも泊まらず帰宅するつもりだ。自宅の最寄り駅もフリー乗降エリアだから、日帰り2日続けるつもりである。
右手にしなの鉄道の線路が現れ、並んで走って屋代につく。かつての国鉄の急行のように、しなの鉄道と長野電鉄が相互乗り入れしたらどうかな、と思う。軽井沢発湯田中温泉行きのロマンスカー。ゆったりとしたシートで新幹線よりちょっとだけ安い運賃にする。観光客だけではなく、上田-長野間の用務客も獲得できるかもしれない。
屋代駅。
16時56分屋代着。長野新幹線に乗るならしなの鉄道に乗り換えたほうが早いけれど、きっぷを買わなくてはいけない。長野電鉄なら遠回りだがフリーきっぷが使える。私は屋代線を引き返し、須坂経由で長野に戻った。須坂までは"まっこうくじら"、須坂から長野までは元東急8500系だった。夕刻の8500系の車内は人が多く、古巣の東急田園都市線の雰囲気によく似ていた。シートヒーターに程よく暖められて眠くなる。それは会社員時代の家路と同じ心地よさだった。
第230回以降の行程図
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2008年2月16日の新規乗車線区
JR:33.2Km
私鉄:56.0Km
累計乗車線区(達成率)
JR(JNR):17,314.4Km (76.56%)
私鉄: 4,720.9Km (69.75%))
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